宮城県在住の知人のブログで紹介されていた絵図がとても興味深いものだったので、それを保有・展示している町に問合せをしていた。
その町とは、宮城県亘理郡山元町(展示施設は、山元町歴史民俗資料館)。
先日、町の担当課から、絵図データを提供していただいた。
なお、この絵図は、タイトル、製作年代ともに不明で、町民の方から寄贈されたものとのことだった。
この絵図を眺めているといろいろ興味関心がわいてくる。
その主なものとしては次のようなもの。
1.貞山堀(運河)が描かれているか? 開削年代の範囲を狭められるか?
2.阿武隈川河口の荒浜から鳥の海への水路が描かれているか?
3.七北田川、砂押川の流路はどうだったか?
4.御舟入堀は描かれているか?
5.吉田川が品井沼に流れ込み、鳴瀬川とはどのようになっていたか?
6.北上川と江合川はどう流れていたか?
<注記>
貞山堀(貞山運河)とは、仙台藩が関係した運河で木曳堀(江戸期)、新堀(明治期)、御舟入堀(江戸期)を言う。
北上運河と東名運河は、明治期の野蒜築港に併せて明治政府が開削した。
明治22年運河取締規則の中で「運河と称するは、野蒜東名及び貞山の各運河を云う」となり、「貞山堀」が「貞山運河」に改称された。
※野蒜東名:野蒜(北上運河)と東名(東名運河)のこと。
このことから、全運河を所管している宮城県においても、区分して扱っている。
(貞山運河を阿武隈川から北上川まで結ぶ47㎞とか49㎞の運河と一括りで表現するのは、適切ではない。)
詳しくは、貞山・北上・東名運河事典をご覧ください。 ⇒ こちら
宮城県教育庁文化財保護課によれば、
・国絵図は、幕府が諸藩に命じて国ごとに製作させた
・全国的な規模では慶長年間(1596年~)、正保年間(1644年~)、元禄年間(1688年~)、天保年間(1830年~)の4回作成された
とのこと。
(仙台領絵図の部分図 提供:宮城県山元町歴史民俗資料館)
この絵図には、阿武隈川河口~名取川河口を結ぶ木曳堀(貞山堀)が記載されていない。
絵図内の御城(仙台城)とは、慶長7年(1602年)に一応の完成をみたとされる仙台城。
このことから、伊達政宗の命により川村孫兵衛が1597年から木曳堀を開削したとする説は排除される。
(正保年間奥州仙台領絵図(写)の部分図)
仙台藩が正保2年(1645)に幕府の命令で制作し提出した国絵図を、元禄10~11年(1697~98)に幕府から借り受けて模写したもの(文は仙台市博物館サイトから転載)。
阿武隈川河口~名取川河口を結ぶ木曳堀(貞山堀)が記載されている。
(仙台領分図(寛文10(1670)年~延宝6(1678)年間)の部分図)
木曳堀(貞山堀)や御舟入堀などが描かれている。
(仙台領国絵図(元禄14年(1701)の部分図)
こうして見ると、今回提供していただいた絵図が一番古いものように思えてくる。
仙台市博物館や宮城県図書館などを訪問し、ぜひとも情報と知恵をいただきたいものだ。
※木曳堀(貞山堀)の開削年代をめぐる諸説は ⇒ こちら
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