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「戦後ドイツは謝罪したのに日本は~」の話でいつも引っかかりを感じるのだが、戦後のドイツは「あれは全部ヒトラーが悪い」と切り離したので、ナチスの蛮行は他者であり擁護の対象にならないが、日本はそうしなかったので東条英機だろうとも身内であり、不当な非難については反論したくもなる。
そういう現代ドイツ人と日本人の意識の差が、政府レベルの発言にも表れていて、結果として「戦後ドイツは謝罪したのに日本は~」という話になるんじゃないかな、と思う。もっとも、ユダヤ人虐殺の計画的実行という蛮行を前にしては、戦後ドイツ人は切り離すしか道はなかっただろうけど。
そう俯瞰すると、実は戦後ドイツの謝罪というのは「うちのバカがアホな事しでかしましてスミマセン」のように、謝罪の形態をとりながらも実は他者批判になってるのではないかと思う。同じ謝罪でも、主体として謝るよりは、職務上の責任者として謝罪のセレモニーをする方が気が楽であろう。
その上で、「英霊への侮辱は許さない」という日本人の発言を見ると、「俺のじいちゃんを侮辱するのは許さん」的な自分主観で怒ってるんだろうなと思う。そして、その背景には武士道にもつながる価値観での「名を汚す」事を忌み嫌う文化(あるいは美学)も影響しているのだろう。
それで、そもそも英霊とは何かというと、ウィキによれば「本来は他者を救うために亡くなった人々全般に対する敬称」とある。狭い意味では靖国神社に祀られている戦死した旧日本軍将兵だが、考える上では本来の意味の方がわかりやすい。では、救われた他者とは誰か。もちろん我々日本人である。
この時、太平洋戦争だけ見るとわからなくなる。無謀な戦争をした、などと批判されたりするから、救ったのかどうか怪しくなる。だが、江戸末期に維新もせずにのほほんと暮らし続けていたらどうなったか。日本は白人帝国の植民地となり、あらゆる日本的要素が歴史の彼方に去っていたかもしれない。
とするならば、明治以降の英霊が救ったものは、紛れもなく日本国に暮らし、日本文化に浸って日本語を話す我々日本人である。個々の戦場や局面では、判断ミスも過失もあっただろうが、総体としてみれば、英霊は(本当は生還した将兵や文官も含めてだが)日本国に暮らす我々日本人を救ったと言える。
東南アジアの国々は植民地時代を経て、後に独立を勝ち取ったが、例えばチベットは中国に占領され、今では報じられているような惨状である。それに比べたら、明治以降の英霊が我々日本人に何を残してくれたのか、何を救ってくれたのか理解できるだろう。
そこまで理解してから「英霊の名誉」について考えると、それは「俺のじいちゃんを侮辱するな」程度の話ではないことがわかるはず。それは、英霊が守り抜いた同じものを我々の世代でも守り抜いて次世代に受け渡すことである。それが、結果として新たな百年、千年先の未来に日本と日本人をつなぐ。
だから、「英霊の名誉が~」と言う人に考えてもらいたい。守るべきは、じいちゃんのメンツではなく、あらゆる日本的な要素を含む日本国と日本人を未来に受け渡すことであり、命を賭してそのミッションを成功させた人々に対する、後世の日本人からの称号が「英霊の名誉」だと思うのである。
逆に、変なメンツで意地を張って国を滅ぼすようなことをしてはいけないのである。それこそじいちゃんに叱られるであろうし、後世の人々が絶えてしまったのでは「英霊の名誉」を語り継ぐ人もいなくなってしまう。我々は常に、箱根駅伝で言えば中間走者であることを自覚すべきである。
もっと言うならば、日本国と日本人と日本的なるものを未来に受け渡すために必要ならば、どのような屈辱でも耐え忍ぶ必要がある、とも言える。その究極の例が昭和天皇による終戦の詔書にある有名な「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び~」であろう。部隊の玉砕はあっても日本の玉砕は許されぬ。
…そして、百年、千年先にも日本的なものに満ち溢れた日本国で日本人が日本語で「俺のじいちゃんを侮辱するな」と言っていれば、概ねミッションは成功である。