最終更新 2019.9.9/第一条
憲法改正が政治的議題にあがっているが、我が国は初代天皇である神武天皇の時代から始まり、皇紀でいえば2678年(=西暦2018年)という歴史の長さを誇る。
その視点に立った場合、ここ数百年の近代国家のあり方を真似て憲法を制定するにしても、そこに書くべき事柄は我が国の場合は実はそれほど多くないのではないかと疑問に感じた。
そこで、私案として以下のようにまとめた。
(憲法改正私案)
前文 我が国は天照大神を祖とする神武天皇が初代天皇に即位して始まった。
第一条 天皇は国家元首である。
第二条 国民は大御宝である。
前文 我が国は天照大神を祖とする神武天皇が初代天皇に即位して始まった。
第一条 天皇は国家元首である。
第二条 国民は大御宝である。
基本的に、我が国が憲法で規定すべき事柄はこれで十分のはず。
(前文)我が国は天照大神を祖とする神武天皇が初代天皇に即位して始まった。
現行憲法にしても自民党の憲法草案にしても、前文に第二次大戦(または太平洋戦争)に言及しているが、皇紀2700年に垂んとする歴史の長さからすれば、そのような最近の出来事をわざわざ記す必要はない。我が国は建国70年ではないのだ。むしろ、そのように勘違いされる方が弊害が大きい。
従って、我が国の成り立ちを明瞭簡潔に記すのであれば、「我が国は天照大神を祖とする神武天皇が初代天皇に即位して始まった。」で十分である。ここから先の細かい情報は、各自が歴史または神話として学べばわかる。
(第一条)天皇は国家元首である。
国家に元首の規定が必要ならば、我が国の場合は必然的にこうなる。現状でも儀礼的にはそうなっているし、明治憲法でも自民党憲法草案でもそのように規定されている。そして、その天皇という存在がどこから来るのかについては、前文に書いてある。
(第二条)国民は大御宝である。
実はここがこの憲法改正私案の肝である。
「大御宝(おおみたから)」とは、神武天皇の「即位建都の詔」または「建國の詔」に登場する言葉である。原文では、「元元(おほみたから)」と表記されている。
文意としては、「謹んで皇位につき、大御宝すなわち人民が安寧に暮らせるようにしよう」という記述になっている。これについては次のような解説もなされている。
《これは、代々の天皇は祖先である神々から最も大切な大御宝(おおみたから)として人民を預かっている。だから何をおいても〈民のための政治〉をしなければならない、という思想を担った言葉なのです。(埼玉大学名誉教授・長谷川三千子)》(1)
なぜこの第二条がこの憲法改正私案の肝かというと、前文で我が国の成り立ちを規定し、第一条で天皇の位置付けを規定したら、あとこの第二条で神武天皇のお言葉を借りて「国民は大御宝である」と規定すると、我が国を構成する全ての人の規定が完了するのみならず、天皇と国民の関係性についての規定も完了するからである。それは、「国民の安寧を祈る天皇」と「神々からの大切な預かりものとしての国民」という関係性であり、我が国の特徴的な国柄を示している。
そればかりか、「大御宝」とは「人権」というここ数百年の間に西欧で誕生した概念をも包含しつつ、さらに高尚な理念を説く概念でもある。
すなわち、人権とは「人間が人間らしく生きるために生来持っている権利」であり、権利とは「ある利益を主張し,これを享受することのできる資格」と定義するのに対して、「大御宝」は国民全員がそれぞれみんな神々から預かった大切な宝物であり、ゆえに危害を加えたりないがしろにしてはならないし、互いに慈しみ合い大切にしあわなければいけないよという、道徳的概念まで含んでいる。
言い換えれば、「人権」は「要求」に力点があり、「大御宝」には「慈愛」といった概念に力点がある。この違いは大きい。
これこそ、西欧とは異なるいかにも日本的な概念だと思う。これを書かずして、何が日本の憲法か、と思う。
以上が、この憲法改正私案の全文である。
皇紀という長い時間軸の目線に基づいて、我が国の成り立ちや国柄、そして現在と未来のあり方について、その特徴を簡潔かつ力強く表現するには、これ以外の条文はむしろ邪魔である。
続いて、第二条以下に条文が不要な理由について記す。
(政治体制について)
我が国の歴史を見ればわかるように、各時代の政治は天皇から委ねられる形式が定着している。その為政者の役職は時代によっては征夷大将軍や関白などと呼ばれ、近代になってからは内閣総理大臣と呼ばれ、その政治体制も様々である。
従って、目線が百年なら内閣や国会などの政治体制について規定が必要と思うだろうが、我が国の長い歴史と千年先の目線で考えれば、政治体制についていちいち憲法に記す意味がない。千年の目線で見ればまたそのうち変わる。
(国防について)
国民を大御宝と規定するからには、国防すなわち大御宝である国民を守るのは当然である。同時に、むやみに戦争するとこれも大御宝を毀損することになるから、可能な限りこれを避けるのも当然である。“憲法解釈”としてそのような帰結になる。
(その他)
その他、現行憲法に規定がある条文について、無ければどうしても不便であるということであれば、本提案の憲法改正私案の下に“国家基本法”でも制定して規定すれば良い。そして、この“国家基本法”については改正の敷居を下げ、時代の変化とともに柔軟に改正できるようにすることが望ましい。これによって、昨今のような憲法解釈とか憲法改正の是非といった騒乱や混乱に振り回されるリスクが減る。
現実的なところを考えれば、このような私案が通るはずもなく、よって強硬に主張するつもりもないが、多様な意見のひとつとしては意味があると思う。
以上。
(1)【正論】今年は「明治150年」 建国の理念をつかみ再認識する大切さ 埼玉大学名誉教授・長谷川三千子 - 産経ニュース
https://www.sankei.com/column/news/170228/clm1702280006-n1.html