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「飾り窓」強盗事件 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道④ 

2022-08-20 05:28:16 | 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道

【連載】藤原雄介のちょっと寄り道④ 

「飾り窓」強盗事件

アムステルダム(オランダ)

 

 

 日本のある自動車メーカーから、欧州最大の自動車部品用自動倉庫プロジェクトを受注した。1987年のことである。現地工事事務所設立準備のため、設計、管理、据付部門の担当者らと3週間の予定でアムステルダムに出張した。
 私はそのプロジェクトの「アドミ要員」だ。アドミとは、お客様や下請け企業との折衝、経理、工程管理、原価管理といったエンジニアリングと工事遂行以外の雑事一般を引き受ける「何でも屋」である。
 
 仕事は思うように進まなかったが、一緒にやってきた同僚たちは、予定どおり3週間で帰国したが、私は無情にも秋風の立ち始めたアムステルダムに一人取り残されてしまう。そしてそのまま、再編成された部隊が戻るまでの3カ月間、アムステルダムに「塩漬け」状態となり、その後更に3カ月滞在することに。

 塩漬けとは、社内用語である。例えば「受注するまで現地に張り付いて、帰ってくるな」といった文脈で多用されていた。それにしても、2年間もアムステルダムに滞在することになるとは……。

 私が働いていた会社では、国内では多くの自動倉庫の実績を有するものの、海外では台湾の小規模案件の工事経験しかなかった。全く知見・経験のない欧州で、しかも主契約者としてオランダ、フランス、ドイツのサブコン(下請け企業)を束ねて工事を遂行しなければならない。
 早い話が、各国で異なる工業規格、安全規格、消防法、建築基準法、労働法、税法などの整合性を確保し、すべてのプロジェクト関係企業を取り纏める必要があったのだ。

▲運河沿いのアムステルダムの街並み

 
 アムステルダムの街は、街中に張り巡らされた運河沿いに、意匠を凝らしたファサードが印象的な古い建物が肩を寄せ合うように連なっている。私は、この美しい街に住むことができると思うと、ワクワクしていた。
 しかし、言語、価値観、思考法、歴史的背景の異なる多くの集団が一緒に仕事をするのだから、衝突しない訳がない。あちらで頭をぶつけ、こちらで躓いたので、たった1年で髪の毛の半分が白くなった。もっとも、一緒に駐在していたОさんは、髪の毛が半分抜けてしまったから、私は少しだけ幸せだったのかもしれない。

 アムステルダムの夏は足早に過ぎ去る。9月の初めになれば、朝夕の気温は10℃前後まで下がり、雨の日が増える。日本からは、夏服しか持ってきていない。冬服を求めてデパートや衣料品店を巡ったが、身長168㎝の私に合う服などどこにもない。

 なにしろオランダ人の平均身長は男性が184㎝、女性が171㎝である。屈辱感に打ちひしがれて、妻にスーツ、セーター、下着、靴下など冬物一式を国際宅急便で送ってくれるよう電話した。
「3週間の筈が、いつ帰れるか分からないなんて、酷い会社ね」
 と妻はこぼした。

 荷物が届くまで10日以上かかっただろうか。その間、毎日震えながら過ごした。アムステルダムの街外れにあるマンション3階の仮事務所と現場のコンテナハウスでひとり仕事をした。パソコンも携帯電話もなく、今のようにインターネットで世界と繋がっている訳でもない。ワープロさえなかった。英文書類の作成はタイプライター、日本語の通信は手書きのファックスだ。

 初冬のアムステルダムは、雲が低く垂れこめ、終日霧雨が降り続く。日照時間も日に日に短くなり、陰鬱な毎日である。孤独で、気が滅入った。大きなため息をついてベランダに出ると、いつも鋭い鳴き声を上げてカモメが数羽飛び交っている。思わず、「カモメさん、カモメさん」と呼び掛けていた。
「まずいな、これ。しっかりしなきゃ潰れるぞ」
 そう自分に言い聞かせる余裕があることに気付き、正気を取り戻すことができたのかも。

 と、こんな具合にアムステルダムでの生活は始まった。

▲観光客も多い「飾り窓」

 

 アムステルダムの生活にも慣れ、日本からの出張者を案内して、有名な「飾り窓」に社会見学に出かけることも。飾り窓地域は、オランダ語でRaamprostitutie(売春窓)、英語では、Red Light District(赤線地帯)と呼ばれ、欧州で最も有名な合法的売春街である。

「飾り窓」は、運河の街アムステルダムの中心部に位置し、そのまた中心には、13世紀に建てられた美しい旧教会(De Oude Kerk)がある。罪深き人々が集うその真ん中に禁欲の象徴でもある教会が鎮座ましましているのは、なんとも興味深い。

 飾り窓地域の景観は、他の地域と同じようなものだ。違うのは、建物のドアが全面ガラス張りであることとドアの上に赤いランプが取り付けられていることだ。赤、紫、桃色などの照明が怪しく映える狭い室内には、ビキニやランジェリー姿の美女や、そうでない女性たち、黒人、白人、アジア人、ふくよかな女性たちがいて道行く飢えた狼どもに妖艶な微笑みを投げ掛ける。目が合ったりすれば、上に向けた人差し指をクイクイと動かして誘ってくる。当時はなかったが、今では、ゲイのための区域もあるそうだ。

 飾り窓地域には、少なくとも表面的には陰湿な感じがない。何の衒いもなく、あっけらかんと性が商品化されている。ブラウンカフェと呼ばれる英国のパブのような店もあれば、レストランも八百屋もある。男たちに混じって、カップルや家族連れがポルノショップを覗いて、キャーとかワーとか騒ぎながら、楽しそうに歩いている。日本では考えられない光景だ。

 そんな街で事件は起こった。出張者のKさん、一緒に駐在していたОさん、それに私の3人で飾り窓の令嬢たちをドア越しに冷やかした後、ブラウンカフェでハイネケンビールとジュネーバ(ジンの原型と言われるジュニパーベリーで香りを付けたスピリッツ)をしこたま飲んだ帰り道だった。

 近道をしようと50mほどの路地に入った。20mぐらい進んだ時、前方から3人の男たちが路地に入ってくるのが見えた。嫌な予感がし、頭の中でアラームが鳴った。が、逃れようにもその路地に脇道はない。引き返すには遅すぎる。早く通り過ぎようと、歩を速めた。
 男たちとすれ違いざま、一番大柄なヤツが、時間を訊ねてきた。今でもはっきり覚えている。午前0時15分だった。答えた瞬間、トレンチコートの首元を掴まれ、首を締め上げられた。
 男の身長は180㎝を越えていただろう。アドレナリンが噴き出していたのか、不思議に恐怖は感じなかった。思いっきり相手の股間を右膝で蹴り上げた。男の手が緩んだ。ほんの少しだけかじったことのある少林寺拳法の構えを取る。ハッタリだ。
 相手がひるんだ瞬間、小柄な男にナイフを向けられて手を上げているОさんを視野の端で捉えた。Kさんはというと、何故かぴょんぴょん飛び跳ねながら、叫んでいる。
「ポリース、ポリース!!  ヘルプ、ヘルプ!!!」
 Оさんと私も思わず一緒に大声で叫んだ。
「Police, Police!!!  Help, Help!!!」
 しばらく膠着状態が続いた後、「何なんだ、コイツら」とでも言いたげな表情で男たちは顔を見合わせ、悪態をつきながら走り去った。
 
 Оさんは、元砲丸投げの選手で腕っぷしは強い。しかし、ナイフを突きつけられているので抵抗する余地はなかった。無謀な抵抗をする私を、バカだな、と思いながら見ていたという。興奮冷めやらぬまま、ホテルに戻り、ジュネーバを引っかけてベッドに潜り込んだ。
 
 翌朝、トレンチコートを見て血の気が引いた。そのトレンチコートは、2週間前、ロンドンに出張した時に思い切って大金をはたいて買ったアクアスキュータム製のものだ。その頑丈なコートの右襟の付け根が5㎝程破れている。
 大男に首を絞められたときに、裂けたのだろう。何という馬鹿力だ。更に、コートの右裾には、8㎝ぐらいの長さの鋭利な刃物で切り裂かれた跡が。いつの間に、切り付けられたのだろう? 闇雲に蹴りを入れた時に切られたのかも知れない。その時になって、初めて恐怖を感じた。

 ピョンピョン飛び跳ねて大声で叫んでいたKさんは、何も盗られず、損害なし。Оさんは、財布を盗られ、6万円の損害。私のアクアスキュータムは、その倍以上の値段だった。チックショー、黙って財布を出しておけばよかった。財布には、数万円しか入っていなかったのだ。
 
 賢明なる読者諸兄姉は、海外で強盗に襲われた時、くれぐれも抵抗などなさいませんように。財布やパスポートとは別に、数万円を入れたダミーの財布を用意し、強盗に差し出せるよう準備しておくことをお勧めしたい。命の値段としてはお安いものです。

▲切り裂かれる前のトレンチコート姿で

   

【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
 昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、NHK俳句通信講座講師を務める夫人と白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。


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