ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

いのちをかけて

2020-03-13 21:16:44 | 礼拝説教
21年前、アメリカ人の宣教師が、どうして自分達は伝道をするのかを、旧約聖書のみことばから話してくれたことがあった。印象に残っていたが、聖書のどこに書かれていることばなのかを捜すことも、知る機会もないまま、時間がたった。


しかし、先日の礼拝で招詞としてエゼキエル書3章1-21節が読まれた時、「ああ、ここだった。21年たってから、神様が答えを下さった💛」と感謝しました。


エゼキエル3章には
彼の血の責任をあなたに問う」18節、20節 2回も書かれている
あなたは自分のいのちを救うことになる」19節、21節 2回書かれている


伝道・宣教は、語る方も、聞く方も、いのちがけであることがわかった
父なる神は、御子キリストに、そのいのちをかけて救いのみわざを全うするようにと、世に遣わした
主キリストは、いのちをかけて救い出したクリスチャンに、いのちをかけて宣教するようにと遣わす


滅びの中にいる人は、福音を信じる者は、いのちをかけて宣教している人を遣わした主イエス・キリストを見て、そのイエス・キリストを遣わした天地創造の父なる神を見ることになる


だから、格好だけ、形式的、本音と建前を使い分けるような姿勢で伝道をしても、相手は人間だけを見ることになり、イエス・キリストを知ることも、神を知ることもできない。


では、何をどう言うように教えられているか。 2回書かれている。
11節 彼らがいても、かなくても、「神である主はこう仰せられる。」と彼らに言え。
27節 あなたは彼らに「神である主はこう仰せられる」と言え。聞く者には聞かせ、聞かない者には聞かせるな。彼らは反逆の家だからだ


質問を受けたり、あかしをする機会が与えられたら、いのちをかけて、伝えるのにふさわしいみことばを捜して、伝えなくてはならない。相手が聞いても聞かなくても責任は果たさなくてはならない。
そのためには、日々の生活の中で、みことばに取り扱われ、深いデボーションの時、神様との交わりの時を持つ必要がある

♬ いのちをかけて 愛を示された
♬ イエス様に出会い すべてが変わった
♬ 私はあなたに 何を持って
♬ 感謝をあらわせば いいのだろう
 ♬ 真昼のように輝きながら
 ♬ あなたの愛を伝えたい
 ♬ イエス様のように輝きつづける
 ♬ 世の光にしてください
コメント
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