介護福祉は現場から 2007.02.22-2011.01.25

新しいブログにリンクしています。7つのテーマにわけました。引き続きお読みください。

第3966号 金沢・大隅・鎌倉/奈良迫ミチ「うたかた」を読む

2010-09-27 17:28:55 | 大隅半島→別ブログ
昨日、竹之井 敏編の大隅半島の道隆寺跡に関する非売本のことを書きました。第3961号
その文章編の大部分が、奈良迫ミチ「うたかた」pp.96-154 です。

昨日、250部しか印刷してないと書きました。
妻が大隅半島の知り合いから編者の竹之井先生の電話番号を聞き、直接残部がないか照会したのでしたが、もう皆無で、県立図書館に1冊寄贈したとのこと。無理を言ってその知り合いの方からお借りしてきた関係で大急ぎで読んだのです。


写真の左側が、「うたかた」の冒頭部分。
右側が、奈良迫ミチ『ふるさと感情紀行』(春苑堂、2001年)。

タイトルに、
「金沢」とあるのは、奈良迫ミチさんの父方のご先祖が金沢であること。私が、30歳の頃に3年間、60歳の頃に2年間住んだところだからです。

「大隅」とあるのは、奈良迫ミチさんの母方のご先祖が大隅半島、しかも旧高山町の出身であること。このブログで何度か書いているとおり、私がここ鹿児島に来たのも義母が高山町に住んでいた(いまは志布志市の施設)からです。

最後の「鎌倉」ですが、
薩摩を近世平定した島津氏は、もともと鎌倉から赴任したわけです。二階堂氏なども鎌倉から大隅に来た。
私は、鎌倉にはブログ仲間を1人知る程度の縁ですが、第3961号でも紹介したとおり、鎌倉五山の筆頭格である建長寺を創建した宋からの禅師蘭渓道隆は、建長寺のまえに1246年大隅半島へつき、肝付氏の城の近くに道隆寺を建立した。(建長寺の創建は1253年)

このことは、2009年、鎌倉建長寺のトップである吉田管長が2度にわたって旧高山町の道隆寺跡を訪問してからにわかに多くの人が知るところとなった。(知らない人も多い)
その鎌倉へ、今度の土曜日、10月1日出かける機会ができた。(というか、10月2日から横浜で開催される成年後見法世界会議に参加するため以前から横浜にはでかける予定でした)


そういうわけで、ストーリーの入り組んだ奈良迫氏の長いエッセイを、昨日、メモを取りながら読んだので、私の記録用に、重要な固有名詞をキーワードとして書きとめておくものです。

* 「うたかた」とは「泡沫」であり、このエッセイでは、著者は、道隆寺跡で聞いたせせらぎからヒントを得ているようです。

全文は、6つのパートからなっています。


【1 晴貞の鐘】

金沢の傳燈寺。1308年創設。今に残る。(道隆寺は、廃仏毀釈で破壊された)
著者の父方の先祖は、冨樫晴貞である。一向一揆の時代。
富山県の小杉へのがれ「小杉喜左衛門」と称した。1570年5月14日自害した。
金沢の傳燈寺に墓があり、そこに1955年、著者の祖母冨樫一恵により一対の灯篭と鐘を寄進した。


【2 道隆寺】

島津に追放されるまで、この地をおさめていた肝付兼俊の弟萩原兼仁が著者の母方の祖である。
くにみの里。(食事をしたところ)
福谷 平(地主)
下茂和男(石工)
銀杏の巨木
観音像
民話の石碑(竹之井 敏)

→第3961号及び第3941号の記事参照。


【3 供養塔】

志布志 大慈寺 石田和尚
梶ヶ野 涼子(琴の先生)
大丸法海 (吉田の大悟寺)


【4 道隆寺跡の鐘】

金沢の傳燈寺にある鐘の「兄弟鐘」として寄進した。(奈良迫さんと妹の冨樫エツ子さん)
作成は、富山の老子製作所(高岡は銅製品で有名です。私の母の出身地でもある)
金沢 林石材店
枝垂桜


【5 母の3回忌】

【6 生と死】
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第3965号 葬式と墓:週刊エコ... | トップ | 第3967号 高木 剛:ドイツに... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

大隅半島→別ブログ」カテゴリの最新記事