介護福祉は現場から 2007.02.22-2011.01.25

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歴史が現代に生きる日々

2007-11-26 11:19:40 | 鹿児島
家の近くに「唐湊」(とうそう)
という地名があります。
市電の駅に「唐湊」がある。
鹿児島大学農学部の果樹園がある。
その名前から、昔は中国の船がきたところかな
と、素人考えをします。

15年ほど前か
アメリカのソーシャルワークの大学で
アメリカの人から
日本には(アメリカにはない)長い歴史があるから尊敬している
といわれたときは嬉しかった。

鹿児島は、その地政学的な位置から
鑑真和尚が上陸したり
ザビエルが上陸したり
外の文明の影響を早くから受けてきました。

それから「隼人」(はやと)
鹿児島県には、いまも「隼人」という地名が残る。
関西に、隼人が住んでいたところが残っていると読んだことがある。
天皇家のお守り的な仕事をしていた。
行列の前にいて吼える仕事だったか。

昨日
曽於郡のどこかで流鏑馬があって高校生の女の子が
馬上から矢を放っている写真が今朝の新聞にでていた。
私の義母が住む旧高山町も流鏑馬の行事で有名です。
鹿児島県には、現存する流鏑馬は3つだという。
言うまでもなく、鎌倉時代に起源を持つ。

鹿児島県を仕切ってきた島津氏は
鎌倉から来た。
16世紀後半、鹿児島を支配した島津氏は
100あまりの地域に分割支配した。それぞれの町は
「外城」(とじょう)とよばれ
現在でも、「麓」(ふもと。武家がいた)や「野町」(商人がいた)
などの地名が沢山残っている。
(残念ながら、平成の大合併で、中世に起源を持つ地名の多くを
失った)

江戸時代を通して島津氏が支配したので
鹿児島県を理解するには
中世までさかのぼってはじめて理解できることが多い。

勤務する大学に4月から国際文化と社会福祉の2コースに
博士課程ができた。
このうち、国際文化研究科に
「中世城郭史特殊研究」という科目があります。
後期に講義が始まった。といっても、1年生は4名のみで
この科目を取った院生は1人のみ。
特記したいのは、この科目は「共修科目」として
一般市民にオープンなのです。
5人の市民の参加があった。「市民」といっても
長年、県内の市町村で文化財の保護などを担当してきた専門家の方々です。
その5人は、「南日本城郭研究会」の幹部だという。

私は、
担当の三木靖先生の修士課程【これは7年前?からあった】講義に誘われて
昨年の後期に5~6回聴講しました。(聴講した院生は3名!)
そこで、島津氏の支配し始めたころ(島津義弘)の
城郭の研究の一端を聞き、
「鹿児島を理解するには(江戸期のみではなく)中世までさかのぼる
必要がある」ということを実感するにいたったのです。
その続きを知りたいと思い、先生にお願いして博士課程の講義を聴講しました。

博士課程の「中世城郭史特殊研究」のほうは
聴講者の高い知識レベルに合わせ、日本の「城郭」についての
基礎的な講義で、毎回、図面や古文書のコピーが用意され
迫力あるものでした。
「でした」と書いたのは、
夜の授業だった関係で
体力的に続かなかったのです。

鹿児島に来て日が浅く勤務する場所以外の知り合いもありませんが
「中世」と格闘する市民の方がいて、夜間も専門的に学んでいる
という地方都市は日本にほかにもあるでしょうか?
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