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「歴史の勉強法(山本博文)」という本はとてもオススメ!

2020年05月06日 01時00分00秒 | 

 

 「歴史の勉強法」という本は、真の教養は歴史を勉強することで身につけることができることから歴史に強い大人になるための勉強法を伝授したもので、初級編では旧国名・官位・江戸時代のお金の換算方法、暦・時間などを優しく解説し、中級編では考古遺跡や京都・鎌倉・古戦場・切絵図・幕府製鉄所の横須賀・洋館を巡っての日本近代史等について説明があり、そして上級編では参勤交代や博物館・くずし文字を含めた古文書の読み方・真田信繁の手紙・ネットの活用方法等について説明があり、どれも興味深い内容です♪

 特に改めて基本的な旧国名やそして六つ、五つなどの時刻について分かりやすく解説があり、勉強になりましたね♪

 歴史好きにはとても理解を深めることができ、「歴史の勉強法」という本はとてもオススメです!

以下は本書のポイント等です♪

・幕府は19世紀初頭のロシアとの交渉の中で、「鎖国」が祖法だというイデオロギーを浸透させました。正確には「通信の国(朝鮮・琉球)」と「通商の国(オランダ・清)」以外の外国とは通信も通商もしないということですが、江戸時代の人はこの体制が「鎖国」で望ましいものだと考えていました。それなのに幕府はペリー艦隊の武力を恐れて日米和親条約を結んでしまいます。そのため武士たちは、条約締結が日本の屈辱だと考え、幕府に攘夷の立場をとらせるために運動します。しかし幕府は、勅許もなく日米修好通商条約まで結びます。これによって幕府の威信は失墜します。このことが幕府が倒れることになる最大の要因だと私は思っています。

・幕府の開国派も、単純な開国論者ではありません。今、戦争になったら勝てないという情勢認識から、開国して欧米諸国の進んだ軍事技術を学び、将来「鎖国」が実現できる国家を作ろうというものでした。「開国してもなんの問題もない」というような割り切り方はできなかったのです。したがって明治新政府の政策は「富国強兵」になります。政府を構成した元攘夷派の武士たちは、屈辱的な日本の状況を自立した誇りある日本に回復しようと考えていました。そしてそれを実現するために、武士身分をも廃止し、国民皆兵の体制を作り上げました。これは言うまでもなくその方が強力な軍隊が作れるからです。この悲願は日清・日露戦争の両戦争に勝利することによって実現します。その勝利の経験が日本人の過信をもたらし、紆余曲折はあるにせよ結局は太平洋戦争という無謀な選択をもたらすことになるのです。

・幕末維新期の本を読むと「長州(ちょうしゅう)」という国名が出てきます。これは「長門(ながと)」のことです。長門は長州と呼びながら、薩摩(さつま)は薩州とはあまり言わず、「薩摩」というのが一般的です。このように国によって呼び方の原則が違うことがあります。「信濃(しなの)」は長野県にある国立大学を信州大学というように「信州(しんしゅう)」という方が一般的です。「〇州」という場合、長州、信州のように最初の文字を使うことが多いのですが、たとえば出雲と出羽があってどちらかを「出州」というわけにはいかないので、これは「雲州(うんしゅう)」「羽州(うしゅう)」となります。美濃(みの)も美作(みまさか)も「濃州(のうしゅう)」「作州(さくしゅう)」となります。美濃の場合、東美濃と西美濃では産業や生活がずいぶん違うので「東濃(とうのう)」「西濃(せいのう)」と分割して呼ぶこともあります。東濃は陶器などの生産が盛んで、山がちな地域も含まれます。一方、西濃は、東国から京都に出る時に必ず通る道筋なので交通が発達しています。「美濃」は「みの」ですが、「濃州」になると「のうしゅう」と読み、「美作」は「みまさか」ですが、「作州」は「さかしゅう」ではなく「さくしゅう」と読みます。読み方が変わりますが、一字になっているのでそうなるわけです。

・岡山県に「両備バス」というバス会社がありますが、「両備」というのはもと吉備国のうち備前(びぜん)・備中(備中)の二国を言うものです。もう一つ、備後(びんご)がありますが、これは広島県になるので、三備にはなっていません。

・「越(こし)の国」は、越前(えちぜん)、越中(えっちゅう)、越後(えちご)に分割されました。これらの国は「〇州」とは言いません。この地域で栽培される銘柄米である「コシヒカリ」は、イメージとして新潟県(越後)の魚沼地方で収穫された米が中心のように思っていたのですが、福井県に出張に行った時、ホテルの朝食の説明で「コシヒカリ」がもともと越前で開発された米であることを知りました。確かに福井県も「越の国」でした。

・山城(やましろ)・大和(やまと)・摂津(せっつ)・河内(かわち)・和泉(いずみ)の5カ国を「五畿内(ごきない)」あるいは「畿内」と呼びます。これらの国は、古くからの朝廷の支配国なので、特別な位置にあったわけです。「畿内近国」といえば、これに近江(おうみ)・丹波(たんば)・丹後(たんご)などを加えます。

・現在でも天気予報など広域を示す必要がある場合に使うのは「関東甲信越」という言い方で、関東は武蔵(むさし)・相模(さがみ)・安房(あわ)・上総(かずさ)・下総(しもうさ)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・常陸(ひたち)の八カ国、甲信越は甲斐(かい)・信濃(しなの)・越後(えちご)で、東京・埼玉・神奈川・千葉・群馬・栃木・茨城に山梨・長野・新潟の各県を総称する用語です。

・江戸時代には、金・銀・銅の3種類の貨幣が流通していました。金の単位は、両・分・朱です。分と朱は4進法で、4朱で1分、4分で1両です。両はもともと砂金の重さの単位で、37.5gです。しかし、江戸時代の小判は品質の良い慶長小判でも金は17.85gしか入っていません。

・江戸時代には一般に金一両で米一石が買えました。米一石は体積の単位で、重さにすると150kgとなります。現在スーパー等で売っている銘柄米5kgが2500円くらいですので、これで換算すると75,000円となります。米は現在の方がはるかに安価で買えるので、とりあえず1両を12万円と考えると1分が3万円、一朱が7500円となります。

・銀と銭は相場があって、変動していました。幕府が慶長14年(1609年)に決めた公定レートは金一両=銀50匁(もんめ)=銭4貫文(=4千文)です。銀の単位の匁は重さで、1匁が3.75gです。銀は重さで量って通用していましたが銀座が作った丁銀は43匁ほどで、両替商がこれに豆板銀などを足して金1両相当とし、紙に包んで封印をして通用させていました。銀1匁は1両を12万円とすると2400円です。次第に金高となるので2千円ぐらいの感覚です。銭1貫文は千文ですが、麻縄で作ったさしでまとめると、なぜか960文で1貫として通用していました。先ほどの公定レートで換算すると、銭1貫文で3万円になります。すると銭1文が30円です。江戸時代は蕎麦1杯が16文でしたから、銭1文30円とすると480円、だいたいこんなところではないでしょうか。

・金貨:一両小判1枚=二分金2枚=一分金4枚=二朱金8枚=一朱金16枚

・一両小判1枚=銀貨:丁銀・豆板銀(秤量貨幣)50~60匁=5匁銀12枚=1分銀4枚=二朱銀8枚=一朱銀16枚

・一両小判1枚=銭貨:一文銭4,000~10,000文

・物価を考える時、参考になるのは小野武雄著「江戸物価事典」(展望社)です。これを見ると、主な物価の時代的変遷がわかります。酒の値段は、18世紀中頃、1升(約1.8リットル)で124文(3720円)から132文(3960円)が定価でした。低級な酒は80文(2400円)や100文(3000円)のものもありました。一番安い酒なら1升2400円で現在よりは高いですが、庶民でも呑むことができました。それが明和5年(1768年)に4文銭ができて銭相場が安くなり148文、164文、200文、248文(7440円)と上がっていきました。1升で7440円も払うというのはかなり高価な印象ですがそれでも酒好きは呑んだでしょう。

・醤油は天保13年(1842年)で関西物は1升190文(5700円)、関東の地回り物は1升132文(3960円)でした。江戸時代後期でもまだ上方から下ってきた醤油は高かったのです。

・砂糖は、江戸時代前期まではかなり高価なものでしたが、18世紀前半から19世紀前半にかけては1斤(600g)銀4匁(8000円)ぐらいに下がっています。もちろん現在から考えれば信じられないほど高価ですが、輸入に頼る贅沢品だったので妥当なところでしょう。この頃には、砂糖を使った羊羹なども作られていて武士などはよく食べていました。大体1棹銀2匁(4000円)。庶民が食べる桜餅などは1個4文(120円)、粒あん入りの小倉まんじゅうは2文(60円)でした。

・銭湯は、庶民に欠かせないものなので、幕府が値段を規制していました。江戸時代後期で8文(240円)です。
・飛脚賃は江戸~大阪の幸便(1ヶ月に9回まとめて送る便)で1封銀2匁(4千円)、即刻送るものは金7両2分(90万円)もしました。これは特別なので庶民が使うことはなかったでしょう。

・明治時代の貨幣の単位は現在と同じ円ですが、これは江戸時代の金貨の単位である「両」をそのまま改めたもので、1ドルを1円として国際基準とも合わせています。円の1/100が銭(せん)、さらにその1/10が厘(りん)でここまで通用していますから円はかなり高額な単位です。明治の1円は、給与を基準に換算すると、明治30年代で現在の2万円ほどと考えられます。

・給料では、明治31年(1898年)の帝国大学卒業生の初任給が35円(70万円)とたいへん高額であるのに比べ、兵士は二等兵でわずか90銭(1万8千円)と非常に低いものです。夏目漱石が明治36年に帝国大学講師になった時は年棒800円(1600万円)、兼務する第一高等学校講師の年棒が700円(1400万円)、この2つだけでも3000万円になります。それに比べて小学校教員の初任給は10円から13円でした。現在の大学教員では考えられないほどの高給取りだったことがわかります。彼の小説「明暗」では、主人公が周囲から援助を求められて閉校していますが、高級サラリーマンと庶民の経済格差を考えればそれもやむを得ないと思いました。

・暦は、太陽や月の運行をもとに作られます。暦法には、「太陽暦」「太陰太陽暦」「太陰暦」の3つがあります。現在、世界各国で一般に用いられているのは、太陽暦の一つであるグレゴリオ歴です。太陰暦は月の満ち欠けをもとにした暦で、月の形が日にちと一致します。月のない新月の日が1日、満月の日が15日です。したがって、月が出ていれば、その日が何日であるかがわかります。しかし、太陰暦では1年が354日となり、太陽暦の365日に11日足りません。すると、3年間で33日、1ヶ月以上ずれてしまうので、実際の季節と大きく食い違ってきます。これを太陽暦で補正したのが太陰太陽暦で、3年に1度、閏月をいれます。日本は、江戸時代までは太陰太陽暦を使っていましたから、閏月のある年があります。明治政府は、これを太陽暦に改め、明治5年(1872年)に12月3日が新暦の明治6年1月1日になりました。

・現在の日本では、西暦と元号が併用されていますが、江戸時代以前は朝廷が制定する元号によって年を表しています。これに併用して干支(えと)も使われていました。これは十干(じっかん)(甲(こう)乙(おつ)丙(へい)丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)、十二支(子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い))の組み合わせで年を表すもので、甲子(かつし)(きのえね)、乙丑(いつちゅう)(きのとうし)、丙寅(へいいん)(ひのえとら)、丁卯(ていぼう)(ひのとう)・・・と続きます。慶長8年(1603年)は癸卯(きぼう)になります。これは60年で同じ呼び方になりますので、次の癸卯の年は寛文3年(1663年)です。

・埼玉県の稲荷山古墳で発見された鉄剣の銘には「辛亥の年」とこの干支が入っていました。これによって471年と推定することができ、この地域の豪族オワケが、ヤマト王権の雄略天皇の側近として仕えていたことがわかったのです。まだ、元号がない時代、中国からもたらされた干支が使われていたことがわかり、それによって西暦年が特定できるという大きな意味を持ちました。

・和暦と西暦を換算する時は、和暦とグレゴリオ歴の換算表であえる野島寿三郎編の「日本歴西暦月日対照表」(日外アソエシエーツ)を身近において使っています。グレゴリオ歴は、ローマ教皇グレゴリウス13世がそれまで使っていたユリウス暦の1582年10月4日を10月15日と改暦したことに始まっています。この年は本能寺の変が起こった年なので、豊臣時代以降はグレゴリオ歴でいいのですが、それ以前はユリウス暦に換算する必要があります。このためには、内田正男編の「日本暦日原典」(雄山閣出版)という大部で高価な本があります。

・現在ではインターネットに(株)まえちゃんねっと作成の「換暦」という便利なサイトがあります。これは、和暦、グレゴリオ暦、ユリウス暦の年月日の相互変換を行ってくれるツールです。たとえば和暦にペリーが来航した嘉永6年6月3日を入力(「嘉永6/6/3」で可)すると、グレゴリオ暦の欄に「西暦1853年7月8日」、ユリウス暦の欄に「西暦1853年6月26日」が出てきます。この時期はグレゴリオ暦なので、ペリー来航は西暦1853年7月8日であることがわかります。これは、「ペリー提督日本遠征記」などを読むときに役に立ちます。織田信長が明智光秀に殺害された本能寺の変のあった天正10年6月1日夜は、暦の上では6月2日です。これを「換暦」で換算すると、1582年6月21日(ユリウス暦)であることがわかります。これも、宣教師の報告などを読むときに必要です。気をつけなくてはいけないのは、年末年始に起こった事件です。元禄15年12月14日に起こった赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、元禄15年(1702年)などと表示しますが、実際の西暦では1703年1月30日です。しかしこれを元禄15年(1703年)とすると誤植だと思われます。カッコで西暦を入れる場合は便宜的なものだと考えた方がいいのです。

・歴史書で西暦ではなく元号を基本にするのは、このような事情があるからです。しかし煩雑になるので、教科書は西暦を先に書き、カッコで元号を入れます。この西暦は、実は元号を機械的に換算した西暦で、年末年始のものは本当にその事件が起こった西暦ではありません。たとえば、王政復古の大号令は1867年12月9日と表記しています。これは慶応3年12月9日だから1867年としているのですが、実際の西暦は1868年(1月3日)です。だからと言って、月日を日本暦にして西暦だけ1868年とすると誤りになるのです。

・江戸時代の時刻は「不定時法」と言って、季節によって昼の時間が長くなったり、短くなったりします。基準は、太陽の出没です。日の出の時刻を明け六つと言い、五つ、四つ、と数え、正午が九つ、それから八つ、七つと数え、日没の時刻を暮れ六つと言います。夏だと午後7時くらいまでは明るいので、昼の時間が長くなるわけです。本を書くときに、季節まで考えて換算したこともありますが、誤解されることも多いので、明け六つを午前六時頃、暮れ六つを午後六時頃と大体の目安で書くようになりました。六つ、五つの数え方は、時刻を知らせる江戸の時の鐘が6回、5回と打たれることから来ています。現在の時刻と違って、当時の時刻には2時間ほどの幅があります。そのため、六つ半、五つ半ということもあります。これなら1時間ぐらいの区切りになります。これを十二支で表す数え方もあります。こちらは、子の正刻が深夜零時ですから、初刻は前の日の午後11時となります。それから、丑、寅、卯と続きます。江戸時代は夜が明けるまでは日付が変わらないので、赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日となりますが現在なら日付が15日に変わっています。卯の正刻が日の出時刻で、それから辰、巳、午(昼時)、未、申、酉(日暮れ時)、戌、亥となります。太陽が南中する時刻を正午というのは、午の正刻だったからです。午前、午後の分け方も午の正刻を中心にした分け方です。これを細分化する時は、子の刻、子の二つ、子の三つ、四つと2時間を4つに分けて示します。深夜を示す「草木も眠る丑三つ時」というのは丑の初刻(一つ)が午前1時に始まり、二つ、三つ(丑の正刻)になるのですから、午前2時から2時半頃で、江戸時代なら誰もが眠っている時刻です。人を呪う「丑の刻詣り」はまさに悪霊が跳梁跋扈する真夜中に行うものだったのです。

・現在の時刻 午後11時~午前1時=子=九つ
       午前1時~午前3時=丑=八つ
       午前3時~午前5時=寅=七つ
       午前5時~午前7時=卯=明け六つ
       午前7時~午前9時=辰=五つ
       午前9時~午前11時=巳=四つ
       午前11時~午後1時=午=九つ
       午後1時~午後3時=未=八つ
       午後3時~午後5時=申=七つ
       午後5時~午後7時=酉=暮れ六つ
       午後7時~午後9時=戌=五つ
       午後9時~午後11時=亥=四つ

・京都・大阪には、西国諸藩を中心に、大名の蔵屋敷が数多く建設されていました。京都は文化を担った公家の居住地であるとともに、西陣など最先端の手工業都市でもありました。大名は、町人の名義で取得した屋敷(そのため表向きは「蔵屋敷」と称しました)に家臣を常駐させ、贈答用の西陣の絹織物やさまざまな工芸品を誂えていました。幕末には、この蔵屋敷が政治的役割を強め、尊皇攘夷の志士たちが活動の拠点としました。たとえば薩摩藩の屋敷は今出川(現在の同志社大学の敷地)にあり、長州藩の屋敷は京都ホテルオークラの場所、土佐藩の屋敷は旧立誠小学校の場所にありました。そして志士たちはくいった屋敷やその周辺音町屋を借りてアジトにしていました。

・坂本龍馬は、土佐藩の脱藩士だったので、大政奉還後も土佐藩の屋敷に入ることは遠慮し、近江屋という旅宿に潜伏していました。そのため京都見廻り組に発見され、殺害されたと言われています。龍馬が殺害された後、西郷隆盛は、龍馬を土佐藩の屋敷に匿わないからこんなことになるんだと、土佐藩の後藤象二郎をなじっています。龍馬暗殺は、最初は新撰組の仕業だと思われていました。その新撰組の屯所は、壬生にあり、当時近藤勇たちが住んでいた八木家住宅があります。ここの柱には、近藤が芹沢鴨を襲撃した際の刀傷も残っています。

・由比ヶ浜では人骨がたくさん出ており、鶴岡八幡宮の一の鳥居から海岸に至る砂地には人骨の細片が一面に散らばっていたと言います。東大人類学教室の教授鈴木尚氏は、鎌倉時代の人骨を求めて、一の鳥居近くの簡易裁判所建設予定地で試掘したところ、続々と人骨が現れ、本格的な調査を行って200平方メートルの土地から少なくとも910体の人骨が発見されました。これは江戸時代後期にまとめて改葬された土地の中央部を掘り当てたためで、こうした場所が何カ所かあったようです。出土した人骨を詳細に調査したところ、ほとんどが青年・壮年の男性で、刀創・指創・打撲創がありました。最も多かったのは刀槍でした。鈴木氏は、この人骨は元弘3年(1333年)5月の新田義貞による鎌倉攻めの時の犠牲者であろうとう推測しています。伝承では、新田義貞が海中に刀を投げ入れたところ、潮が引いて鎌倉に入れたとされますが、歴史家の中には磯伝いに鎌倉に入れるか確かめた人がいて、干潮の時は七里ヶ浜は人が通れたことがわかりました。

・長篠の戦いで織田信長が使った鉄砲の数は「信長公記」の原本・写本で千挺というのもあり、三千挺というのもあって、結論が出ていません。また、鉄砲隊を三列にして交代で撃たせることで、弾込めの時間を短くしたと言われていますが、これも現在では否定されています。

・東京の街に江戸を感じるために有効なのは、歩く時、切絵図を持参することです。現在は、切絵図と現代の地図を対照して掲載している本もありますし、切絵図の復刻本もあります。また、専門の古本屋やインターネットのオークションで、本物の切絵図を手に入れることができます。切絵図は色刷りの木版で、色分けについては切絵図そのものに凡例が載っています。白は武家屋敷、グレーは町屋、赤は寺社で、道路は黄色、堀や川や海は青、緑は緑地です。大きな寺社などはイラストも載っています。大名屋敷に紋がついているのは上屋敷、■は中屋敷、●は下屋敷です。このマークがついている方に表門があります。大名屋敷の堀沿いに白抜きの小さな四角がありますが、これは辻番所があることを示しています。

・徳島市立徳島城博物館の企画展では、徳島藩が参勤交代で大阪に出るのに大船団を仕立てていたことが紹介されていました。大阪の庶民にとっては大変なイベントで、参勤交代の大船団が大阪湾に現れる時は大勢の人が港に行って見物したということです。徳島藩の大船団は特別ですが、きらびやかな行列で行う参勤交代は庶民にとっては恰好の娯楽で、朝早く村を出て宿場に行き、道にゴザを敷いて座り、一日中、諸大名の参勤交代を見物する人もいました。

・参勤交代というテーマ一つにとっても、当時の雰囲気が残る宿場などを訪ね、現地の博物館を見学することで、これだけ世界が広がっていきます。ですので、地方に観光に行った時は、城や寺社などの観光地だけではなく、その地域の博物館や歴史館に行くことをお薦めします。

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坊千代(門前仲町 東京)の創作料理はとてもオススメ!

2020年05月05日 01時00分00秒 | 外食

 以前友人に勧められて東京の門前仲町にある坊千代に行きましたが、かなり素晴らしかったので、今回は二人で貸し切りで利用しました♪

↑お店の入口

 このお店は本来なら8名まで予約できるのですが、このコロナのご時世のため最近は少人数しか予約はできないとのことで、今回はバースデーを祝うため2人貸し切りでの利用となりました♪

 平日の18時に訪れたのですが、相変わらずこのお店の世界観が素敵で、室内には狩野派の屏風や西洋甲冑、壁には古地図などもあり、生け花も美しいです♪

↑狩野派の屏風

↑狩野派の屏風と甲冑

↑生け花

 壁にある絵もなかなか秀逸で、昔のこの門前仲町の深川八幡の様子や、船の絵、当時の日本地図はなかなか興味深かったですね♪
 じっくり見て楽しみました♪
深川八幡は当時からかなり賑わっていたようです♪

↑深川八幡

↑船の絵

↑日本地図

 それから食器棚には美しいコーヒーカップが並べられていてこれらも素晴らしいです♪

↑食器棚

荷物は宝箱の中に入れます(^_^;)

↑宝箱

 テーブルの上にはナプキンや箸、美しい器があり、器には水が入っていました♪

↑テーブルの上

 席に座って、壁にあるメニューを見ます♪

↑メニュー

今回のメニューは以下でした♪
蛍烏賊や筍、桜ステーキとは春を感じますね♪
さすがです!

・雲丹ういきょう
・団扇寿司
・馬鈴薯饅頭
・山ペンネ 蛍烏賊餡
・筍堀り
・夢の桜餅
・桜ステーキ
・苺の花束

 そして料理が運ばれますが、今回は一人当たり料理1万円税込に4千円税込のペアリングのコースとなります♪

 名物のピザを、追加や一部料理変更で対応することもできましたが、今回は2人なのでボリュームもあるのでピザの追加は不要とのことなので止めておきました。

 ペアリングは以下の写真の通り、シャンパンから、ロゼ2種類、焼酎、日本酒、赤ワインの6種類とバラエティに富み、特にこれらも桜の春を感じるものが多く素晴らしかったですね♪
 料理に合わせたお酒で美味しかったです♪

↑ペアリング

 まず、料理は雲丹ウイキョウが運ばれますが、いきなりこれは美しいです♪
 新鮮で素晴らしい色の雲丹とキャビア、それからウイキョウという野菜の彩りも素晴らしいです♪
これらをシャンパンとともに美味しく頂きました♪
美味しい♪
これはテンションが上がります♪

↑雲丹ウイキョウ

そして次は山口の団扇(うちわ)エビ で、その一番下にアスパラガスがあり、飾りに「なでしこの花」もあるのは秀逸でこれも美しく、団扇エビは、ねっとりと甘さを感じ美味しかったですね♪
この料理も芸術です♪
しかもお皿は江戸時代の有馬焼きとは素敵です♪

↑団扇エビの料理

 そして実際に団扇エビの殻を見せてくれたのは面白かったですね♪
かなり殻は大きいですが、身は小さいとのことです(^_^;)

↑団扇エビ

 そして明治時代に海外への輸出用の器として日本で作られた器に、フォワグラ馬鈴薯饅頭が入って運ばれました♪
 黒トリュフが綺麗に飾られ、そして馬鈴薯饅頭が柔らかくさすがの出汁で、生姜も少し効いてこれは絶妙で美味しかったです♪
これもあまりにも美味しくて思わず食が進んでしまいますね♪
「坊」と焼き印があるのも素晴らしいです♪

↑フォワグラ馬鈴薯饅頭

 器は、和服の日本女性がたくさん並べられて描かれていて、確かにこのデザインは当時のヨーロッパ人が喜ぶかもしれません♪
 しかしながらこの器はかなり美しく、日本製の質の良さを感じますね♪

↑輸出用の器

 それから「山ペンネ 蛍烏賊餡」が運ばれました♪
ホタルイカが濃厚でトマトソースと合います♪
ペンネと蕗が似ていて紛らわしいですが、味のアクセントとなり素晴らしいです♪
これも美味しかった♪

↑山ペンネ 蛍烏賊餡

 そして「筍堀り」とはネーミングが素晴らしいですが、ちゃんとスコップも用意されているとは秀逸です♪
 筍の皮に包まれたタケノコや鰻、山芋、手作りリコッタ・マスカルポーネ・モッツァレラチーズ等のグラタンで、これも美しく、そしてチーズが濃厚でこれも美味しかったです♪
スコップで筍堀りとは楽しくなってきますね♪

↑筍堀り

 それから「夢の桜餅」が運ばれ、魚の夢カサゴが桜の葉に包まれこれも素晴らしいお味で上質なカラスミとよく合います♪
菜の花も添えられていて春らしさを感じます♪

↑夢の桜餅

 この8角形の白いお皿は200年前のフランス食器とのことでで、何と写真立てのピカソが利用しているお皿と全く同じタイプとは驚きましたね♪
 しかし、ピカソは美味そうにそして綺麗に骨だけを残して魚を食べています(^_^;)

↑ピカソ写真

 そしてメインの「桜ステーキ」が運ばれます♪
 桜ステーキとは春らしくて素敵なネーミングと思いましたが、何と馬肉ヒレステーキでした♪
確かに馬のことを桜と呼びますね♪
これが絶妙な柔らかい焼き上がりで、こんなに美味しい馬肉ステーキは初めてでしたね♪
素晴らしい♪
このお皿は江戸時代の伊万里焼とのことでこれも素晴らしいです♪

↑桜ステーキ

 そして「苺の花束」でしたが、デコレーションが素晴らしい誕生日ケーキでこれは感動でした♪
このセンスが素晴らしいですね♪
花びらが添えられているので花束なんですね♪
良い思い出となりました♪

↑苺の花束

 そして飲み物は食後酒も選べますが、ホットコーヒーを頼みました♪
器は食器棚から好きなものを選べるとは素晴らしいです♪
気持ちよく美味しいコーヒーを頂きました♪
 スプーンも器に合ったもので素晴らしいですね♪

↑ホットコーヒー

↑ホットコーヒー

 今日も坊千代は大満足なコース料理でした♪

 なお、この坊千代の店主は1981年生まれで、18歳でイタリアで修行し、都内のリストランテや懐石料理やで修行した後は、在パリユネスコ大使付き公邸料理人としてシェフを勤めたとは素晴らしいですね♪

 2011年に荻窪で坊千代を開店し、2018年からこの門前仲町に移転しています♪

↑店主の略歴

坊千代はとてもオススメです♪ 

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