偉大な創造者エホバ神は、ご自分の預言者イザヤを用い、ご自身が目を留められる特質の人は、謙遜で、意気がくじかれ意気消沈している者、エホバの言葉を畏れている者であることを告げられました(イザヤ66:2後半)。
預言者イザヤは、自分と同世代の人々を注意深く観察し、神エホバがご自分の清い崇拝者に求めておられる特質を持つ人が、ほとんどいないことを知っています。そのような状態ゆえに、イザヤは背教したイスラエルは、差し迫った裁きを受けて当然と考えます。エルサレムの神殿で行われているイスラエル人の崇拝の内容を神エホバがどのようにご覧になっているかに注目してください。イザヤは次のように記しています。
「牛をほふる者は、人を打ち殺す者のようである。羊を犠牲として捧げる者は、犬の首を折る者のようである。供え物を捧げる者は、豚の血を捧げる者のようっである。乳香を記念のために捧げる者は、不思議な言葉で称賛する者のようである。彼らは(神エホバの道ではなく)自分たちの道を選んだのであり、極めて不快なものを喜ぶ」(イザヤ66:3)。
このイザヤが記した言葉は、イザヤ書の最初の章に記されている神エホバの言葉を思い起こします。その章で、神エホバは、ご自分の民である片意地な人々に対して、あなた方の表面的な崇拝行為は私エホバを喜ばせないだけではなく、実際には増々義憤を感じさせている、と述べておられます。イスラエルの民の崇拝は偽善的だからです(イザヤ1:11~17)。それと同様に、ここで、神エホバは、イスラエルの人々の神殿での捧げ物を、人殺しの犯罪者になぞらえておられます。その人々の捧げる高価な雄牛の犠牲は、人を殺すことと同様に、決してエホバに喜ばれることなないのです。たの捧げ物の犠牲は、犬や豚を捧げる者になぞらえています。そうした動物は、モーセの律法の規定によれば、汚れており、神エホバへの犠牲の捧げ物として全くふさわしくありませんでした(レビ記11:7、27)。神エホバは、そのような偽善行為を処罰せずにおかれるでしょうか。
次回にイザヤが記した言葉をお伝え致します。
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