さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

大ピンチをむかえる ~マゼランと世界一周(6) 21

2009年12月29日 | ポルトガル

ジェロニモス修道院の内部に入ってゆきます。

この中庭を臨む回廊が素晴らしいのです。美しいアーチには繊細な彫刻が施されており、大航海時代の栄華が刻まれているのです(^益^)b

 

大ピンチをむかえる ~マゼランと世界一周(6) 

マゼランが率いる総勢265名を載せた5隻の船団は、人類未踏である世界一周の夢を胸に出帆した。何年にも及ぶ未知の世界への旅の準備を、想像を絶する忍耐力をもってやりとげたとはいえ、まだマゼランには大きな問題があった。もとよりポルトガル人のマゼランがスペイン人の船団を指揮するのである。当然部下たちは面白くないし、信用されているわけでもない。マゼランの乗る指揮艦の他4隻の船長たちは、それなりの地位と実績を持つ者たちであり、頭に立っているよそ者のマゼランに反感を持っている。さらにこんな危険な大冒険に参加してくる乗組員たちは、うさん臭いところからかき集められたくせ者ばかりである。 

 マゼランはこういった部下たちとのこぜりあいや反乱を乗り越えながら南米の沿岸を南下し、5ヵ月後の翌年1月、ついに巨大な湾に到着した。これこそ、彼が探し求めていた秘密の抜け道かもしれない!

 しかしここは、ラ・プラタ河の河口であった。実はマゼランは、ここが西の海へとつながっている海峡であるという間違った情報を元にしていたのである。そこの上流を何日も探索しても無駄であった。さらに南下してこれぞと思う河口を探ってみても失敗であった。どこまで行っても行き止まりばかり。そのうち部下たちは不安にかられ出し、反感を持つものたちはマゼランを失脚させる機会を窺った。 

 この危機的状況を想像できますでしょうか。船の上でひとり自分の失敗をひた隠しに隠し、すべてを打ち明けて指揮権を放棄するか、このまま黙り通して行くところまで行くべきか。ここまで精神的に追い詰められた人がどれだけいることか。 


スペイン王のもとでの出航 ~マゼランと世界一周(5) 20

2009年12月23日 | ポルトガル

 

さてインドから帰ったマゼランを唖然とさせた、ポルトガルが東方貿易で得た莫大な富をつぎこんで完成させたジェロニモス修道院を見物しました。(^益^)b

バブル経済だとハコモノが次々…という構図は昔から変わらないんですねェ(゜゜)w

この彫刻群がすごいんです。じっくり見ていると口が開いてしまって目がチカチカ(^益^;

 

スペイン王のもとでの出航 ~マゼランと世界一周(5)

 マゼランはスペインへ渡り、とある裕福な商人の援助を受け(ここの娘さんを嫁さんにする)、スペイン王カルロスの御前会議に乗り込んでゆく。当時宮廷にはさまざまな船乗りたちの売り込みが殺到していたが、マゼランは違っていた。実際に香料諸島へ行った経験と知識を披露し、切り札としてマラッカから連れてきた奴隷のエンリケ(ポルトガルの伝説となる航海王子の名前をつけたとはw)を見せたのだ。それから香料諸島へ向うには、アフリカを回りインドを通過するよりは、西から秘密の海峡を抜けたほうが早く到着でき、スペインに無限の富をもたらすことができると説得したのだ。

 王の許可を得、裕福な商人からの投資を取り付け、マゼランは偉大なる冒険の準備に取りかかった。灼熱の赤道を越え、南極の酷寒を通過し、嵐や無風状態、取引や戦争にも備え、数年に渡るかもしれない未知の海域への航海の準備を統率するのは、考えられないほどの多岐にわたる細かい気配りと忍耐が必要であった。ひとつの小さな過ちがすべての計画を台無しにするのだ。

 さらにポルトガルのマノエル王は、この計画を聞きつけて、あらゆる手段を使って妨害を試みた。大きな夢を胸に、約一年半にも及ぶこの困難な準備期間を乗り越えたことも、マゼランに不朽の名声をもたらすものではないだろうか。

 そして1519年8月10日、ついにマゼラン率いる5隻の船団が、スペインの王旗を拝受して冒険の旅へと出航した。マゼランの胸には、前回の航海に旅立つとき、ポルトガルの旗を受けてマノエル王に忠誠を誓った思い出が甦っていたに違いない。


祖国を捨て夢を選ぶ ~マゼランと世界一周(4) 19

2009年12月20日 | ポルトガル

 

リスボン西部にある街ベレンには、エンリケ航海王子を記念して立てられた「発見のモニュメント」が港を見渡しています。船の舳先に立っているのがエンリケ、続いて天文学者、宣教師、船乗り、地理学者などが並んでいます。中に入ると展示物が並んでおり、エレベーターで上に登れば屋上が展望台になっているんです。

上に登ると潮風が気持ちいい。ちょっとコワイぞ(^益^;

 

こちらはジェロニモス修道院。マヌエル王が大航海時代にもたらされた富によって建てた巨大な建物です。

祖国を捨て夢を選ぶ ~マゼランと世界一周(4)

 マゼランは7年間に及ぶインド戦線から帰国した。いくつかの戦傷を日焼けした肉体に残し、マラッカで買ったマライ人の奴隷ひとりを連れ、人類未踏の世界一周ルートで再びセッランに会うことを胸にポルトガルへ戻ったのである。

 船がリスボンへ入港したしたときの驚きは大きかったに違いない。そこにはインドから搾取した莫大な富によって建てられた壮麗なるジェロニモス修道院がそびえ建ち、港には多くの商船がぎっしりと並び、巨大な世界都市へと変貌していたのである。マゼランは世界でもっとも裕福な王となったマノエルに会った。しかしこの王様は冷たかった。何年にも及ぶ冷遇に耐えかね、マゼランは最後に「自分が他国で職を求めてもよいか」と訊ね、マノエルはそれを一笑に付し去ったのである。

 自由になったマゼランは祖国を見限り、その船乗り、軍人としての経験、様々な海域や民族の知識をもとにフリーランサーとして生きてゆく決心をした。大西洋を渡って西へ進めばアメリカ大陸へぶつかるが、それを通り抜けて香料諸島へ行くことのできる秘密の海峡がある。その夢のような話を元手に、ポルトガルのライバルであるスペインに、船団をひとつまかせてほしいと売り込んだのである。

 彼を「売国奴」と批判できようか?彼のあまりにも大きな夢と野望は、小さな国への忠誠心にとどまるものではなく、人類にとっての偉大なる歴史的第一歩となるはずのものであったのだ。


理想郷の発見 ~マゼランと世界一周(3) 18

2009年12月17日 | ポルトガル

さて海岸沿いに西へ向うとベレンという街に出ます。ここにはポルトガル伝統のお菓子、「パステル・デ・ナタ」という名産品のお店があります。1837年創業!と店の前の地面のタイルに書いてあるでしょ?すぐ横にあるジェロニモス修道院で作られたとか。半生の焼き菓子、エッグ・タルトです。店は大変混んでおり、座る席はいっぱいw(゜゜)w しかたなくふたつ買って、外の公園のベンチで食べることにする。

さてさて開けてみると…

う~ん、香ばしい匂い♪ 折り重なったパイ生地は高温で焼かれるためにパリパリ。出来立てで暖かい^^

砂糖とシナモンのパウダーがついております。港なので風が吹いており、細かいパウダーが風で吹き飛んでしまふw

おおおお・・・ 甘さ控え目なので日本人好みでせう。クリームはきめ細やかな滑らかさ。こりゃあうまいぞ!旅先なので爪がのびていて失礼(^益^;

 

理想郷の発見 ~マゼランと世界一周(3)

 アフリカを船でぐるりと回ってインドへ到達するルートが利用されるようになって、ヨーロッパ辺境の弱小国ポルトガルは、一躍世界進出の最先端に躍り出た。その立役者が船団を組織して冒険の準備を整えたエンリケ王、別名「航海王子」であった。ポルトガルの鼻の先に位置するマデイラ島を発見したのが1418年、そのわずか百年後の1518年には、ポルトガルの船はインドを通り越して中国の広東や日本にまでやってきたのである。

 無限の富をもたらす大航海時代は、発見と開拓の熱狂に満ちていた。最初はにこにことめずらしい物を見せて原住民と友好関係を築く。駐屯地が建てられ、そこを拠点にして商売を始めて警備兵を配置する。それが軍隊になり、その国すべてをまきあげるという手続きが植民地政策の始まりだ。人口わずか150万足らずのポルトガルは、突然世界制覇の夢に乗り出した。

 1505年、そのような大帝国の野望をになったポルトガル艦隊にいた乗組員のひとりがマゼランであった。この艦隊は東洋貿易をしきっていたイスラム教徒を蹴散らし、インドを支配下に置き、その西にある香料諸島を含む海洋一帯を制覇した。それには策略と脅かし、そして電光石火の襲撃と情け容赦のない殺戮が伴っていた。

 

 ところでマゼランにはフランシスコ・セッランという友人がおり、その男はインドを通り越して香料諸島(今のインドネシア)に到着した。そこで彼は思わぬ歓迎を受けた。素朴な原住民は、わずかな装飾品と引き換えに莫大な量の香辛料を差し出した。貨幣を知らず、物欲を持たず(従って人を疑ったり闘うことをほとんどしない)、平和な自然生活を送っている民族であった。セッランは楽園のようなこの地が気に入り、軍隊も冒険も、商売も略奪も、ふるさとも捨ててこの牧歌的世界に身を投じたのだった。美人を嫁さんにもらって子供も作り、きっとこいつは幸せだったに違いない。

 このセッランこそがマゼランの世界一周計画にからんでいた。セッランがその後マゼランに宛てた手紙のなかに、「また会いにおいで。別の道を通って」というくだりが残っているのである。

 人を出し抜いたりだましたりすることが奨励される競争社会のなかで、自分の生きる道を必死に確保しようとするこの世の中よりも、そんなことが必要ない(存在すら知らない)理想郷がもしあるならば、私もセッランのように亡命したいと思うかもしれません。あなたはどーですか^^;

 


大航海時代の幕開け ~マゼランと世界一周(2) 17

2009年12月12日 | ポルトガル

馬車博物館へ行きました。繁栄した時代の名残が感じられます。

すごく豪華でしょう?こんなのが通ったら、見ている人は唖然とするでしょうねェ(^益^;

子供用のものもありました。きっと馬も小型サイズだったのでしょうね。

外に出たら、普通の馬車が走っていました(゜゜) 観光客向けですね^^;

 

大航海時代の幕開け ~マゼランと世界一周(2)

 揚げたじゃがいもが主食であるイギリスの食事は驚くほどまずいですが、それでもテーブルには塩と胡椒があるし、紅茶やコーヒーは飲める。しかし中世のヨーロッパでは、今から見れば信じられないほど貧しかったのです。じゃがいももトウモロコシも、トマトもまだ入ってきていませんでした。紅茶やコーヒーはもちろんまだ輸入されていないし、砂糖も香辛料もまだ入ってきていなかったのです。いったい何を食べていたんだ?

 毎日の食事が劇的に素晴らしく変化したのは、アメリカ大陸、アフリカ大陸、インドなどに本格的に進出した大航海時代があってこそだったのだ。まさにそれがヨーロッパ人の、生きる喜びを根本的に変えたといっても過言ではないだろう。

 食べ物を魔法のように美味しくする様々な香辛料、それはヨーロッパからはるかかなたの土地でしか生産することはできない。船に乗せられラクダに運ばれ、盗賊に襲われ、その運搬は困難を極めた。さらに多くの国々を通過する度に法外な関税をかけられ、到着するときには価格は金や銀と同じになるほどの貴重品であった。その香辛料ゆえにと言っても過言ではない。キリスト教徒はその流通経路を確保するため、十字軍を組織してイスラム教徒に対して大規模な侵略戦争を仕掛けたほどである。

 そこで大胆にもヨーロッパから海路で直接インドへ行ってしまおうという計画が立てられた。反対方向の西から南へ、船でアフリカをぐるりと回って行くルートである。これが軌道に乗れば、香辛料の価格は考えられないほど破壊されるであろう。それが成功すれば、それまでヨーロッパの辺境地であったイベリア半島のスペインやポルトガルは、一躍貿易の最先端に躍り上がるではないか。

大航海時代への準備が整えられた。