十勝の活性化を考える会

     
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永遠のニシパ

2023-01-24 05:00:00 | 投稿

 

先日、北海道命名150年の記念ドラマ“永遠のニシパ(北海道と名付けた男 松浦武四郎)“を放映していた。ニシパとは、アイヌ語で酋長を意味している。松浦武四郎は幕末の探検家や北海道の名付け親と呼ばれ、私人として3度、公務で3度、合計6回も北海道を訪れて、「十勝日誌」など数多くの記録書を残している。

また、“北海道”と命名する際には6つの案を考えており、その中のひとつが採用されたという。アイヌ語の「カイ」が、「この土地で生まれた者」を意味すると教えられると、はじめは“北加伊道”を考案していたが、その後に役人に加伊を海に変更され“北海道”とに名付けられたそうである。

彼の身長は150センチしかなかったが、16歳から国内諸国をめぐっている。ロシアによる北の地の接近を聞きつけ、また故郷を離れている間に親・兄弟が亡くなったことを契機に、蝦夷地探検に出発することになった。彼は1855年に、江戸幕府から蝦夷御用御雇に抜擢され、松前藩による圧政に苦しむアイヌ民族の窮状を見聞きしたことで、「アイヌ民族の命と文化を救うべきである」と報告書で訴えている。

しかし報告書は、松前藩や和人による圧制がそのまま記されていたことから幕府の反感をかい、この報告書の出版が武四郎の生前には許可されなかった。

また彼は、『北海道国群検討図』や『東西蝦夷山川地理取調図』などを残しているが、アイヌ民族への差別も「十勝日誌」などに克明に書き残している。彼は、落款に「馬角斎(ばかくさい)」と書いている。これは明治政府がアイヌ民族に対してとった政策が、バカ臭くてやっていられないという意味を込めて作ったのであろう。

松浦武四郎は、北海道地名の約1万個あまりのアイヌ語地名を収集している。また、アイヌを道案内に約1万キロを踏破し、その歩行の速さは通常の人の倍の踏破力であったらしい。

ところで2019年の北海道は、松浦武四郎により命名されたとする150年目で、様々なイベントがあった。しかしアイヌ民族にとっては、和人による搾取と収奪の150年目とも言えるもので、アイヌの人から見れば焦点がずらされてしまっている。和人は、アイヌ民族に対しておこなった事実を忘れてはならないと思う。

奈良時代の西暦801年、桓武天皇が坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命してエミシ征伐を行っている。この頃の北海道はあまり知られてなく、アイヌと言われ始めたのは18世紀前後で、古くは“エミシ”、その後にエビス、エゾ、アイノ、カイノ、エンチュウなどと呼ばれていた。

エミシとは荒ぶる人の意味であって、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島東国(現在の関東地方東北地方)や、現在の北海道樺太などに住んでいた人々の呼称である。

従って江戸時代まで東北地方には、アイヌ民族がたくさん住んでいた。そのためアイヌ語文化圏は、東北6県まで及んでいる。アイヌ語地名が東北地方に多いのは、それが理由である。

明治時代になってからのアイヌ民族は、狩猟やサケ漁を禁止された上に日本語も強要され、やせた土地へ強制移住させられるなど多くの差別を受けた。そのためにアイヌは和人と比べて生活水準が低く、その精神文化だけが受け継がれようとしている。

ところで、文明が栄えるところには必ず文字があった。なぜなら、文字があってこそ文化を伝えることが出来たと思う。アイヌ民族には、知里幸恵の『アイヌ神謡集』」などの口承文化があるが文字を持たなかった民族で、詳しい実態は良く分かっていない。

言語は、世界中に約7千種類あるといわれるが、日本人のように1言語しか話さないのは、世界で約3割といわれている。人類の歴史を見ると、アメリカの南北戦争やヨーロッパの宗教戦争などは民族と民族との戦いであったが、言語が同じであれば戦争は起こらなかったかもしれない。

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