吉村さんへ
あらためてとうほうTV開局の1日はお疲れさまでした。最後に顔を出してくれましたがやはり「すみっこの台所」オーナーの顔は重要です。人が集まる所に人あり。です。
1998年くまもと未来国体開催前年に熊本県で住民ディレクター養成講座を開催しました。そのときにたまたま別の方からの紹介でやってこられたのが吉村さんとの出会いです。東京出身でちゃきちゃきモノを言い、アクティブな感じを直感的に受けました。講座初日からそれは見事に表れていました。同じ講座にいたのが現在共に運営するNPOくまもと未来副理事長の澤啓子さんです。吉村さんは事務局長です。
吉村さんのアクティブな性格はどんどん新たな取材をしていき編集も覚えるのが早かったとおもいます。1年後国体開催年になって春から熊本朝日放送での夕方番組をプロデュースしました。いきなり素人住民ディレクターの番組づくりが民放の夕方に登場です。1999年熊本は熱かったのです。私の発想は住民ディレクターがメイン司会で局のアナウンサーがそれの補佐役でした、局のアナウンサーがリードするのではなく「住民ディレクターが主導する番組」でした。キャスターを誰に受けてもらうかが大きな課題でした。
120名の住民ディレクター(前年までは住民キャスターとの呼称も使っていましたが実質的には同じです)から選ぶことはその後の反響が大きく難しい決断でした。普通に考えると行政の事業ですから「みんなで交替でやる」ということに落ち着きますが未来国体を本当に県民の中に浸透させて行くには「番組の顔」が必要です。メインキャスターを県民の皆さんに覚えてもらわないと何となく1年が終わります。ただでさえ火と水と緑を表した3つの人形キャラクターが目立っていましたから「住民ディレクターの顔」がないと120人が隠れてしまいます。
プロデューサー判断で吉村さんともう一人の交代制にして他の皆さんはリポーターとして出てもらいました。出演者を巡るそれからの大騒動は思い出しても苦笑いが出るほど大変でした。が、プロデューサーは嫌われても頑と動きません。これが大事です。結果的には国体終了後もこの番組が昇華して「新発見伝くまもと」という民放で日本初の住民ディレクターの暮らしから伝えるレギュラー番組となります。今もカタチを変えたとはいえ続いています。
あれから13年、すみっこの台所のオーナーとなり若手農家と行政とのコラボで新しい情報発信の仕組みとソフト事業が吉村さんから始まりました。画期的な大事業です。わたしの目に狂いはなかったことがやっと今証明されていると感じます。先を見て確たる信念で動きを創る、吉村さんの生き方はわたしの生き方と同時進行していたと感じています。今からです、吉村さん益々ご活躍を願っています。
@1999年春からスタート、熊本朝日放送「国体情報局:人、光る。にゅーす」のメインキャスターを務めた吉村さん。