根岸屋で腹ごしらえし、ほろ酔い気分になった愛友丸の仲間は、そのあと、真金町(まがねちょう)へ向かった。
秋の心地よい風が、夜のヨコハマの街に吹いていた。
彼らが向かった真金町は、横浜でも指折りの遊郭の街であった。いわゆる赤線地帯である。
その頃の日本の赤線地帯で、最も賑やかだったのはおそらくこの真金町であろう。
真金町の遊郭にやってくる客は、主に横浜港に寄航する船舶の船員達や、駐留軍関係施設で働く日本の男であった。
その頃の船乗りは愛友丸のような闇船に乗っている者が少なからずおり、彼らの実入りは多かった。現金収入もあるが、それ以上に闇物資の現物収入もそれ以上に多い。駐留軍関係で働く男達も同様であった。
そんな彼らは、馴染みになった女の機嫌を取るために、横流しや闇で手に入れた物を持って通うようになり、上客として大いにもてはやされたものだ。
ところで、落語家の桂歌丸が生まれ育った所は、その真金町の遊郭(祖母が妓楼の富士楼を経営)である。戦後の幼少の頃の思い出話を、先日のラジオ放送で彼はこんなふうに話していた。
「戦後間もない頃、私は小学生だったが、お米の弁当を持って学校へ通っていたのは、クラスで自分一人だった。他の子供達はサツマイモだのジャガイモだのの弁当だった。
昼食の時間になって、私がお米の弁当と玉子焼きなどを食べ始めると、担任の先生がじっと私の方を見て『いいなぁ・・・・・』」と感に堪えぬように呟いた。
家に帰ってその事を母に話したら、翌日から、朝私が学校へ行く時に、『これを先生に渡しなさい』と言って、私に紙袋を手渡すようになった。
学校へ行く途中でその中を見たら、チョコレートだったり、洋もく(アメリカのタバコ)だったりした。遊郭に来るお客の船員さん達が、沢山の横流し品を持ってきてくれたので、我が家では、戦後の食糧難を経験することは全くなかった」
そのようなことを歌丸が面白可笑しく話していた。
横浜の、そのような所で育つと、あのような風情の男が出来上がるらしい。
そんな闇経済で賑わう真金町遊郭に来た愛友丸の仲間は、それぞれに馴染みの女がいるらしく、「それじゃ、また後でな!」とお互いに言い合って、姿を消して行った。
まだ馴染みの女がいない耕一は、どうしたのだろうか・・・。
耕一は、アカネという喫茶店へ向かった。
アカネのコーヒーが飲みたくなったのだ。
「こんばんは・・・」
耕一が店のドアを開けて中に入ると、ソファーに座って新聞を読んでいる先客がいた。
「あら、コウちゃんいらっしゃい! 久しぶりだわね」
カウンターの中から、中年のおばさんの元気な声がした。
「おかみさん、いつものコーヒー下さい」
耕一はそう言って、空いているソファーに座り、タバコに火を付けた。
続く・・・・・・