次の小論は私のホームページに今年(2021年)3月末まで載っていましたが、突然、プロバイダー側からホームページの枠を廃止するとの通知があり、別のプロバイダーと契約することも考えたのですが、このブログともう一つブログの発表枠を持っていることもあり、HPで発表した重要な文章はブログに再掲していきたいと考えています。下の小論「地勢国家学」は1992年に書き、2006年に私のHPに載せたものです。
永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)
地勢国家学(地勢的国家成立論)
“Geonationology,” or “Geographical-territoriology”
---The Study of the Relationship between a Nation’s Territory and its Geographic Features---
先に書いた「日本の戦争責任と『平和戦略論』」において、「戦争攻防論」「革命攻防論」「クーデター攻防論」「テロ攻防論」に言及した。私は日本古代史の研究をしており、国家の成立条件を考究したことがある。地勢国家学はその考究に有効である。また、“国家が安全に成立する条件”をも地勢国家学は考察する学問であるから、「戦争攻防論」等には不可欠のものである。以下に、1992年に書いた論文の一部を掲載したい。
【地勢と国家と三度の戦国時代】
各国家にはそれぞれまとまりやすい統治領域というものがある。一つのまとまった支配領域は、地勢的影響を強く受けていると考えないわけにはいかない。 これを逆に言うと、ある領域は一定の条件下では二分裂、もしくは三分裂した方が政治的には治まりやすいということである。
例えば、朝鮮半島を例にとると、ここはその地勢的影響から分裂しやすい地域と見ることができる。北からの圧力、南からの圧力を受けやすいのである。
現在、北朝鮮、南朝鮮と分裂しているのも、北からはソ連(+中国)、南からは米国(+日本?)の圧力が存在してきたためであり、ソ連が崩壊した今もなお、分裂状態が継続しているのである。 が、一九九二年現在、中国が健在とはいえ、北からの力が弱まったのであるから、南北は統合に向かう大きなチャンスであろう。
朝鮮半島は統一を保っていた時代もあるが、それは南からの圧力がなくなり、北の圧倒的な力の傘のもとにいたとき、失礼な言い方になるかもしれないが、中国を宗主国とする〝半〟独立の状態にあった時(統一新羅、高麗、李氏朝鮮の時代)と一九一〇年から一九四五年までの日本の植民地となっていた時が統一を保っていた時期である(念のため付言するが、私は客観的事実を述べているのであって、半独立の状態や日本の植民地支配を是としているのではない)。
朝鮮半島は統一政権が領域を支配していた時期も長いけれど、分裂していた時期もかなり長いのであり、現在は南北に分裂した状態が続いているのである。
このような歴史的事実から言えることは、朝鮮半島はその地勢的傾向からそこに存在する政治権力の支配領域、つまり、国家は分裂しやすいのであり、逆に言うと、分裂してはじめて安定する傾向があるということである。古代に、馬韓、弁韓、辰韓と三分裂していたり、百済、新羅、高句麗と分裂していたり、現在のように南北朝鮮に二分裂しているのも、朝鮮半島という領域の持つ地勢的傾向のためではないだろうか。
中国もまた、場合によっては二つか三つに割れる可能性のある地勢的傾向を持つ領域の上に成立する国家である。それは、統一の時代と分裂の時代を見ると明らかであろう。魏、呉、蜀の三国時代、南朝と北朝に二分裂した南北朝時代、また金及び元と南宋の時代、一九三二年に満州国が成立し、太平洋戦争で日本が敗れるまでの日本の支配下にあった中国領域と重慶政府の支配する領域の二分裂時代が分裂の時代である。
中国の領域は時代によって大きさも異なるのだけれども、南北に二分裂したとき、それぞれに核となる部分、つまり、黄河流域の華北穀倉地帯(北)と揚子江流域の華中穀倉地帯(南)を中心にまとまることが可能である。そのため、逆に二分裂しやすいとも考えられる。
日本は周囲が海で囲まれているため、外からの圧力を受けることが非常に少ないため、一つに統一されやすい地勢的傾向を持つ領域である。もちろん、統一の方向へ行く過程として、戦乱状態は応仁の乱後の約一世紀の間の戦国時代のように存在する。
付言すると、この戦国時代は第三次戦国時代というべきもので、第一次戦国時代は、『後漢書』に記されているように「桓(在位147-167)・霊在位(168-189)の間」であるから最大に見積もって、四十年ほど、中をとれば二十年ほどである。 第二次戦国時代は第十代の崇神天皇から第十四代の仲哀天皇までの四十年ほどの期間に起こったと私は考えている(およそ、三四〇年~三八〇年くらいまでの約四十年間)。つまり、四道将軍から日本武尊の時代は第二次戦国時代なのである。
この三回の戦乱の時は日本でも小国に分裂していたであろうが、周囲を海という大きな高い城壁がめぐっている日本は、その地勢的傾向から分裂していることが安定にはつながらず、統一への求心力がはたらくのである(第一次、二次戦国時代はもともと統一されていた状態から分裂して戦乱状態になったのではなく、小国分立から一つに統一される過程と理解すべきであろう)。
【地勢国家学と古代九州王朝】
国家の支配領域の地勢的傾向が国家の成立にどのように影響しているかを考察することを、いま仮に「地勢的国家成立論」と呼んでおきたい。 また、まだ未完成ではあるが、これを学問体系としてとらえると「地勢的国家成立学」、略して「地勢国家学」と呼ぶことができよう。「地勢国家学」は“地勢”と“国家の支配領域との関係”、及び、“地勢”と“国家が安全に成立する条件”をも考察する学問である。
いま、この「地勢国家学」から日本を見ると、日本は二分裂や三分裂の分裂状態のままであることが非常に困難な地勢的傾向を持った領域であることが分かる。
例えば、二分裂して、一方が本州に支配領域を持ち、他方が九州に支配領域を持って対立したとしても、その軍事的バランスが十年も二十年も拮抗するということは有り得ないし、どちらも自分を滅ぼす可能性のある存在を放置しておくことはできないから、必ず一方は他方を滅ぼしにかかることになる。
その時、軍は日本列島内を容易に動くことができる。
本州政権が近畿から軍を出すとして、下関ないしはその手前の九州島に上陸しやすいところまで、軍を移動させるのは陸路をとるにせよ、海路をとるにせよ、むずかしいことではない。
地勢的に軍の移動をはばむ要素がない。また、九州島への上陸も船を使うことになるが、それほど困難なことではない。逆に、九州政権が本州を攻略するのもむずかしい要素はない。下関付近に上陸し、後方の補給路を確保しながら、本州政権の中枢部に攻め込むこともできるし、瀬戸内海を通って、海路から本州政権の中心に迫ることもできる。
いずれにしても、両者にとって必要なのは相手を攻撃する体勢をととのえる期間だけであると言ってよい。
いわゆる銅鐸文化圏と銅剣銅矛文化圏の対立を政治的対立ととらえ、大和を中心とする政治権力と九州を中心とする政治権力が対立していたとする研究者がいるが、これは二つの勢力の重なる広島ないし岡山あたりにその国境を設定するのであろうが、地勢的に軍の移動をはばむ要素のない国境を古代に想定するのは困難である。
「地勢国家学」から、銅鐸文化圏と銅剣銅矛文化圏を政治権力(国家)間の対立と見るのは誤りと考えられるし、古田氏の主張するような「九州王朝」が存在したとしても、その国境を広島や岡山のあたりに持ってくることは誤りであろう。
軍隊の移動のしやすさ(補給路や退路の確保、兵士の健康の確保を含む)と国家の支配領域が密接な関係を有していることは明らかである。ユーラシア大陸に大帝国を築いたモンゴルの軍は豊富な騎馬と移動食料としての家畜群を有し、移動能力がすぐれていたためあのような大帝国を築くことができたのである。
日本は小さな島国であり、軍隊の移動を根本から妨げる要素はほとんどない。古代においては、道路も整備されておらず、原生林等の植生も今とは比較にならないほど繁茂していて、人々の移動をはばむ要素であることを考慮したとしても、それは強い意図を有する軍隊の移動を根本的に妨げるものではない。
最近、縄文時代の遺跡の発掘が相次いでいるが、その発掘によって明らかになってきていることは、縄文時代の集落は閉鎖的な集落ではなく、広範囲に交易活動を行なっていたことである。 例えば、青森市の三内丸山遺跡は、今からおよそ五千五百年前から四千年前までの約千五百年間続いた縄文の村の跡であるが、これまでの常識に反するような大きな木造建築物が建てられていたことが確認されており、遠く離れた新潟県の姫川産のヒスイ玉や岩手県久慈産のコクク玉や北海動産の黒耀石製石器などが発掘されており、当時の交易活動の範囲が非常に広いものであることが分かる。
当時は、原生林や繁茂する植物のために、人々は広範囲に移動できなかったと考えるならば、大きな誤りである。動物がどんな山奥にも獣道を作るように、古代人も交易の道(海上の道の場合も陸上の道の場合もある)を作って広範囲に交易活動を行なっていたのである。古代の日本は他の地域への移動ができなかったと考えることは誤りである。
日本は、地勢国家学から言って、基本的に分裂状態が続きにくい国なのである。地勢国家学の立場からは、古田武彦氏が主張する古代の九州王朝説は成立しがたい説と断ぜざるをえない。
古田氏は、倭の五王は九州王朝の王であり、しかもこの王朝はいわゆる「磐井の乱」をおこした〝近畿天皇家〟から反逆者と見なされている「磐井大王」を経て、七世紀末まで連綿とつづいている、と主張する。しかし、このような見解が成立しがたいことは明白である。日本は二つの勢力(国)が長期間共存できる地勢的傾向を持っていないのである。
もし、二つの勢力の間に大規模な軍が越えるのが困難な大砂漠や大山脈があるか、あるいは二つの勢力の後方にそれぞれを支える大きな勢力が存在するのなら、長期間その二つの勢力が共存する可能性はある。 例えば、戦後米ソが名古屋あたりで日本を東西に分けて分割統治したなら、東西ドイツや南北朝鮮のようになっただろうし、二分裂ではなく多分裂なら戦国時代のように互いにからみあって牽制しあうためにある程度の期間は分裂状態が継続する可能性はある。
しかし、日本には軍の移動を不可能にするほどの地勢的に困難なところはない。ゆえに、古田氏の主張する九州王朝は存在することが不可能であろう。
『長谷川慶太郎の世界はこう変わる』(徳間書店刊 一九九二年)によると、欧米の知識人は将校訓練課程を履修しており、最低の軍事教育を受けている。知識人に軍事的教育がなかったら、軍隊のシビリアンコントロールは不可能であり、軍事教育=軍国主義と考えるのは誤りだと長谷川氏は言う。
私も全く同感で、古田氏の九州王朝説に少なからぬ同調者がいるのは軍事的思考の欠如を示していると言って過言ではない。現在の世界情勢を軍事的視点からとらえ、的確に分析し、不法な軍事的侵略を許さぬためにも軍事的教育・教養は必要であろう。日本には、軍事的教養を身につけたり、後述する〝革命攻防論〟を学ぶ場が皆無であるのは残念であるし、日本人が日本に安心して暮らしていくための重要な要件を欠いていて、危険である。
【古代の秀吉】
もし、倭の五王が九州王朝の王者であるとした場合、一方で〝近畿天皇家〟と対立し、他方で朝鮮半島に大軍を送り込んで戦うことができるだろうか。
私が近畿天皇家の指導者なら、朝鮮半島に出兵して手薄になった九州王朝を絶好のチャンスと背後からおそう。つまり、九州王朝は同盟でも結ばないかぎり、このような両面作戦をとることはできない。好太王の碑文に示されている、三九一年や四〇〇年や四〇四年の倭軍の朝鮮半島への出兵は通説のように日本の統一に成功した〝大和朝廷(大和政権)〟と見るのが自然である。
たとえ、大和朝廷でなくても、日本の統一なしには朝鮮に出兵できない。つまり、四世紀末には日本の統一に成功し、朝鮮半島に出兵できる勢力があったということである。
豊臣秀吉は一五九二年に朝鮮に大軍を送り込んだ。これは、一五九〇年に小田原の北条を降し、奥州の伊達を服従させ、日本全国の平定に成功したからである。秀吉は国内に敵をかかえて朝鮮に出兵したのではない。全国統一の半ばで、たおれた織田信長では朝鮮出兵はできない。統一に成功した秀吉であったから、朝鮮出兵が可能となったのである。
同様に、三九一年に大軍を朝鮮に送り込んだ倭の指導者も日本の統一(関東より北は蝦夷の住む辺境の地として平定の枠外にあったと思われる)に成功したから、派兵ができたと考えるのが自然である。
秀吉が長い戦国時代を勝ち抜いて最終的に日本の統一に成功し朝鮮に出兵したように、当時の倭の指導者も崇神天皇から仲哀天皇までの〝第二次戦国時代〟を勝ち抜いて日本の統一に成功し、その後、朝鮮に出兵したのだと私は考えている。つまり、当時にも〝秀吉〟がーーーー歴史は繰り返されるのであるーーーーいたから、朝鮮半島への大規模な出兵が可能となったのである。
三九一年に高句麗軍と戦った倭軍についてであるが、私は、最初、武器や戦法も騎馬民族系の高句麗軍に比して劣ったのではないか、と考えていたのであるが、秀吉の軍との比較からそのようには思えなくなったのである。
日本の平定に成功した豊臣秀吉は朝鮮の出兵を決意するのであるが、戦国時代をようやく終えた日本には当時の全ヨーロッパの全ての鉄砲の数に勝る数の鉄砲があっただろうと言われている。もちろん、実戦的な刀、槍、鎧、兜などの武器も多量にあったから、当時の日本は世界有数の軍事大国であったのである。
一五四三年にポルトガル船が種子島に鉄砲を伝えてから日本人はまたたく間に鉄砲を製作する技術を習得し、一五九二年に秀吉軍が朝鮮に出兵する時には多量の鉄砲があったのである。これは過酷な戦国時代を経て、生き延びるための必死の技術革新とともに生まれたのであろう。このことを考慮に入れると、四世紀末の倭の軍は〝第二次戦国時代〟を経た後の優秀な武器を携えて朝鮮に侵攻したのではなかろうか。
五世紀に造られたと考えられている大阪の古市や中百舌の古墳や陪塚から多量の鉄製の刀や剣や甲(よろい)や冑(かぶと)が見つかっているし、馬用の冑も見つかっている。これは、倭の五王の時代に倭軍が高句麗軍と戦う過程で輸入または開発製造されたものと私は考えていたのであるが、四世紀末の倭軍はすでに優秀な武器を持っていて多年の戦闘経験のもとに朝鮮に出兵したと考えるべきではなかろうか。単なる蛮勇だけでは海を渡り「百済や新羅を臣民とする」ことはできないし、強敵の高句麗と戦うこともできない。
紀によると、倭王讃に比定される応神天皇より四代前の第十一代垂仁天皇の時代に、「鍛(かぬち)の川上に大刀一千口を造らせた」という記述があり、これから応神天皇よりだいぶ前に刀剣の製作がすすめられていたことが分かる。『魏志』の「東夷伝」の弁辰の条に「国は鉄を出だす。韓、濊(わい) 、倭はみな従(ほしきまま)にこれを取る」とあり、卑弥呼の時代から倭は南朝鮮の鉄を手に入れていたようであるが、〝第二次戦国時代〟に倭(の中の有力国、つまり大和政権)は南朝鮮の鉄の産地から鉄を何らかの方法で確保し、生き残りをかけて必死に鉄製武器、武具の開発、改良に努めたのではないだろうか。
その結果、倭軍は三九一年に朝鮮に出兵した時点ですでに優秀な武器を開発し持っており、それらが高句麗軍との戦闘を通してさらに改良され、五世紀の古墳の中に埋められるようになったのだと私は思う。
日本人は外国の技術を習得しそれに研きをかけてさらに優秀な製品をつくることに長けている。これは、太平洋戦争の後もそうであったし(多数の分野で米国の技術を追い抜いた)、秀吉の時代の鉄砲製作においてもそうであった。おそらく、四世紀末の時代においても同様で、当時の日本人も優秀な武器を製作していたのであろう。
倭の四世紀末の朝鮮半島への侵攻は、百済、新羅、高句麗の三国が互いに覇を競って勢力をそぐ中で、〝第二次戦国時代〟を終え、倭を平定した大和朝廷がその軍事的優位を背景にして朝鮮半島に出兵したと考えられる。日本(倭)は地勢国家学から言って、分裂してもまとまりやすいが、朝鮮半島は分裂していた方がむしろ安定する傾向があり、その分裂に乗じて軍事的優位に立つ倭は比較的劣勢な百済と新羅を屈服させ、高句麗と激戦を展開したのである。
付言すると、十六世紀末の日本軍の朝鮮侵攻は、日本の平定を終えた秀吉がその余勢と圧倒的軍事力を背景に朝鮮出兵を実行したのである。中国の庇護のもとに、隣国日本との軍事バランスが大きく崩れたことに朝鮮側は気づかなかったため秀吉軍の侵略を許してしまった。
さらに付言すれば、一九一〇年の日韓併合は、江戸幕府を倒し、内乱を平定して日本の統一に成功した明治政府が欧米から移入した各種技術、軍事技術を習得し、圧倒的に優位な軍事力の下で朝鮮の支配に乗りだしたのである。
李氏朝鮮は宗主国の中国(清)の庇護の下に、現在のどこかの国のように平和ボケしていたためか、隣国日本との軍事バランスが大きく崩れたことに気づかず、しかも日本が内乱を平定した後は拡張政策をとり、朝鮮に侵攻する可能性が高いことを歴史の教訓から学びそこねたために日本に完全に侵略、支配されてしまった。日本は内乱を終えた後は軍国主義国家になり、隣国朝鮮にとっては危険な存在なのである。
倭の五王、秀吉、日韓併合を見て私が思うことは、日本人(の支配層)はなぜ朝鮮半島の支配に対して執念のようなものを持っているのか、ということである。倭の五王は宋に対して南部朝鮮の軍事支配権を認めることを執拗に迫った。
朝鮮半島は日本人(の支配層)にとって先祖の住んでいた故地ゆえに執念を燃やすのであろうか、それとも、紀が記すように神功皇后の時に手に入れた領土(官家)を二度と手離したくないという執念であろうか。
〈地勢国家学と原子力発電問題〉
「地勢国家学」から、原子力発電問題を考えるとどうなるか。
日本で原発を設置することは大きな問題がある。 米国のスリーマイル島の原発事故や旧ソ連のチェルノブイリ原発の事故は非常に恐ろしい致命的とも言える事故であったが、国家の領域を考慮すると、日本であのような原発の事故が起こった場合ほど、深刻ではないと言えよう。
広大な領土を有した旧ソ連のようなところで原発事故が起こっても、放射能汚染の問題は残るけれども、人口の密集地でもないかぎり、事故で汚染された地域を放棄すれば国家の機能はマヒしてしまうことはない。
特に、ソ連は国内に大きな〝海〟をもっている国なのである。極北のツンドラ地帯などは陸の形はしているけれどもほとんど人の住まない海と同じなのである。海の中に造られた原発はたとえ致命的な事故を起こしても大きな〝海〟が人間の集中する都市部への直接的な被害を最少限度におさえる働きをすることになる。
同様に、米国の本土から離れた島に造られたスリーマイル島の原発事故も本物の〝海〟の壁が米本土への被害を最少限度におさえたのである。
他方、日本の原発はどうであろうか。日本はソ連や米国に比して国土が非常に小さい。そして、人口密度は非常に高いから、原発事故がもし起こったら致命的な打撃を日本に与えるだろう。
例えば、京都の北にある福井県若狭湾の小浜の原発で水素爆発から大量の死の灰を噴出するような大事故が起こったらどうなるだろうか。京都、大阪、兵庫、奈良、滋賀という大人口をかかえる近畿地方は死の灰によって莫大な死者を出し、すべての生産活動や商業活動は完全に停止してしまうだろう。死の灰による直接的な被害地の大きさを予測することはむずかしいが、かなりの範囲を人間の住むことが不可能な場所として放棄せねばならないだろう。
近畿以外の県は安全かと言えば、だれが考えても明らかなように狭い日本のどの場所も完全に安全ではないし、死の灰を含む降雨によって農作物を食べることができない状態が続くだろう。つまり、一基の原子力発電所の重大事故で日本のような小さな国は致命的な打撃をうける可能性があるのである。
一九八六年のソ連のウクライナ共和国のチェルノブイリ原発事故は、その周辺だけではなくヨーロッパの各国に大きな放射能汚染をもたらし、農作物や食肉に甚大な被害を与え、一九九二年現在、その影響は消えていないが、ソ連は日本の何十倍の国土を有する国であるから、あの程度の被害ですんだのである。
その一部(近畿地方などソ連の広大な領土に比してほんの一部であろう)が使用不能で放棄しても、ソ連ならそれほど通痒を感じないだろうが、日本は地勢がソ連とは異なるのである。日本での大きな原発事故は日本国の存亡にかかわるほどの重要問題である。狭い日本で原発を造ることは、広大な支配領域を持つソ連や米国で原発を造ることとはまったく意味が違うのである。
この点を日本の為政者はどのくらい理解できているのだろうか。「地勢国家学」は〝地勢的傾向から国家の成立する条件を考察する学問〟であるが、「国家が安全に成立すること」もその主要な研究テーマとなる。「国の安全」なくして国家は成立しない。国家を壊滅に追い込む可能性のあるものを国家の領域内に置くことはまちがっている。
ソ連や米国や中国なら、メルトダウン(炉心溶融)のような重大原発事故でも国土の広大さゆえ、致命的とならない可能性が高いから原発設置もゆるされるであろう(もちろん、もっと安全なエネルギーを開発して原発を廃止する方向で考えた方がよいと私は思っている。そのエネルギーは既に開発されていると思われるが…)。
しかし、国土の狭い日本やフランスやイタリアや英国で原発を設置し稼動させることは国家を壊滅させる可能性があるゆえ間違っていると私は考える。どうしても、日本で原発を造りたいなら、本土から遠く離れた島にでも造るべきである。もちろん、原子炉攻撃をされないという条件がつく。この場合も地勢的にいくつかの条件を考えなければならない。
ついでに言うと、原発を海のすぐそばに設置することは、国土の安全を主要テーマとする「地勢国家学」の立場からは、信じがたい愚かな行為であると断定せざるをえない。
なぜかと言うと、敵対する勢力が出現した場合にその敵の大砲がすぐ飛んでくるところに、武器弾薬庫を設置する馬鹿がどこにいるだろうか。原発は、攻撃側から見れば、いわばむき出しの火薬庫である。原発は平和的施設であると思われているから、防御態勢などないに等しいだろう。
日本を滅ぼすのに原爆や水爆は要らない。通常兵器で原子力発電所を攻撃すればよい。 日本を取り巻く海は外堀であり外敵を防ぐ一つの要素であるが、あらゆる方向に通じていて攻撃意図を持つ外敵の接近手段を完全に封じることは不可能である。
外堀である海の防御の手薄なところから潜水艦か高速艇で原発に接近し、何らかの手段でTNT火薬を原発に命中させて爆発させれば日本を滅ぼすことができる。首都圏を壊滅させるために福島県の原発を、関西を破滅させるために福井県の原発を爆発させれば、日本はほぼ壊滅状態となるだろう。より確実性を期するのなら、九州と北海道の原発も攻撃しておけばよい。
日本は、人口の密集しているところのごく近くに(領土が狭いからそうならざるを得ないのであるが)、なぜ、危険な、攻撃爆破されれば致命的な原発を設置するのか。「非武装中立」を国是とし、軍隊も保有せずに世界のすべての国を友好国と見なしてやっていこうとしているのなら、原発を海に面したところに設置するのも理解できないことではない。
しかし、毎年、莫大な国防予算を軍事兵器の購入等に使い、自衛隊という名の軍隊を擁する政府が無思慮にも原発という名の最も危険な火薬庫を海岸に設置するのを容認しているのはどういうつもりなのか。私には理解できないところである。
【革命と地勢国家学】
地勢国家学は国家が安全に成立する条件をも考察する学問であるから、当然、革命やクーデターについても考察の対象としなければならない。 どのような時にどのようにして革命が起こるのか、成功の条件はなにか、また、どのような時に失敗するのか。クーデターについてもまた同様なことを考慮する必要がある。
私は、何年も前から (正確にいうと、三島由紀夫が割腹自殺した昭和四十五年以来) 疑問に思っていることがある。日本の自衛隊は幹部候補生に革命とは何か、革命の起こし方、防ぎ方、つまり、〝革命攻防論〟とでも言うべきものを教えているのだろうか、という疑問である。また、〝クーデター攻防論〟はどうであろうか。
軍隊の主要な役目は、諸条件の設定をせずに一言でいうと、内外からの国家の存立をおびやかす敵の攻撃を粉砕することであろう(内外の敵が実際には国民にとって〝解放軍〟であることも有り得るが、ここではそのような考慮をしていない、念のため)。
したがって、軍隊は内からの攻撃である革命やクーデターについて、少なくとも幹部たちは熟知している必要がある。〝敵〟のことを知らずして、戦えるはずがない。今の日本の自衛隊の幹部や幹部候補生は「革命攻防論」「クーデター攻防論」を学んでいるのだろうか。
戦前の旧日本軍ではその点どうだったのだろう。軍人のみならず、政治家や何らかの組織のリーダーたらんとする者は、その組織を守るためにも攻めるためにも、ある程度の革命攻防論、クーデター攻防論の知識が不可欠であると私は思うのであるが、大学では教えていないし、いったいどこでこの知識は身につけることができるのだろうか。 あまり役に立ちそうもない心理学や経済学よりも大切であると思うのだが・・・。
1991年8月19日早朝、ソ連でクーデターが起こり、ゴルバチョフ大統領を排して、ヤナエフ副大統領が八人のメンバーからなる国家非常事態委員会を代表して大統領に就任した。ヤゾフ国防相もこの委員会の一員であった。 しかし、クリミヤで静養中のゴルバチョフ大統領の拘束には成功したものの、エリツィンロシア大統領の拘束には失敗し、通信やマスコミの掌握を行なったけれども、一般の電話やファックス回線はそのまま使える状態にしておいたり、一部マスコミの掌握にも漏れがあったりして、結局、クーデターは失敗し、8月21日にはゴルバチョフが復権した。
国家非常事態委員会の八人組のクーデターは三日天下で終わったわけである。この失敗を見て、私は友人のA氏に、「本当に、へたくそですね。信長や秀吉や家康のような戦国時代の武将なら皆知っていたような基本的な手法も知りませんね。私でももう少し上手にできそうですが・・・」と嘲笑いながら言わないわけにはいかなかった。
私の尊敬するB氏は、「私が仮に指導者だったとしたら、ゴルバチョフやエリツィンやモスクワ市長などといった人物は、事の是非はともかく、逮捕したらすぐ殺し、マスコミや通信は完全に掌握し遮断して、テレビを通じて大演説を国民にぶって国民の心をゆり動かして・・・」と言われた。
確かに、革命側やクーデター側にとっては、もし生き残ったら、倒そうとする政府の〝精神的支柱〟となるような人物は行動を起こした直後に抹殺する必要があるだろう。 人は主義・主張に動かされるけれども、人によってもっと動かされる。振り子をゆりもどす危険性のある政府側の指導者たちは殺しておいた方がよい(これが、人間として正しいかどうかを論じているのではない。革命を成功させることのみに主眼を置いている)。 また、マスコミや通信を完全に掌握し、国民にはクーデター側の一方的情報しか流れないようにすることが絶対的に必要である。
ソ連の八人組のクーデターは、電話やファックス回線が自由に使えたし、ハム無線による通信や西側ラジオの傍受も自由であり、新聞やラジオといったマスコミの掌握も不十分であった。 マスコミと通信関係の機関・機能の完全掌握はクーデター成功のための必要不可欠な条件である。 それによって、国民に前政府の〝腐敗・堕落・無能〟を訴え、クーデター政権の登場を納得させる、少なくとも仕方がないと諦めさせることができるのである。
人心をゆり動かし、クーデター政権を受け入れさせるための〝大演説〟は必要である。革命やクーデターは〝人の心〟が起こさせるものであるから、人の心をつかむことが絶対必要なのである。 ソ連の八人組はこれらのことができていなかったのだから、失敗しても当然である。
ソ連の八人組の中にはヤゾフ国防相も含まれていたし、ソ連の指導者階級の中の超エリートと思われるのに、革命やクーデターのことは何も学んでいなかったのだろうか。 私の言う「革命攻防論」や「クーデター攻防論」をソ連のエリートたちは学ぶ機会がなかったのだろうか。
私がここで、革命やクーデターについて論じるのは、「革命学」や「クーデター学」が人の指導者(大小を問わない)たらんとする者にとって、不可欠の「学問」であると考えるからである。 また、歴史を考察する者にとっても必須の学問であろう。軍事的視点を身につけることのできる有用な「革命学」の登場を期待してやまない。
(1992年に書いた拙論「辛亥の変とワカタケル」より抜粋[大和書房の『東アジアの古代文化76号』と『季刊邪馬台国67号』の「辛亥の変とワカタケル」は1992年の拙論の一部である]・・・2006年5月5日 永井津記夫) ※『辛亥の変とワカタケル』の全文章を載せた本は未出版である。