前川文科省前次官と読売新聞の対応
「表現の自由」を理解していない日米の“多数の”マスメディア
Freedom of expression exists to criticize political powers, not to criticize those individuals who commit adultery.
前川喜平前文科省事務次官は、加計学園の獣医学部新設計画をめぐる記録文書を公開し、5月23日に記者会見を開いて首相官邸の関与、圧力を明らかにした。これに対して、前日の22日、読売新聞朝刊は「前川氏が出会い系バーに繁雑に出入りするような人物であった」という趣旨の報道をした。他のメディアやジャーナリストは読売新聞が政府の意向をうけて、前川氏の人間としての信用性を失墜させる目的で、週刊誌や三流新聞ならともかく、大新聞がこのような報道をしたのだと反応した。
表現の自由は、基本的に、個人の不倫や不祥事をあばくために存在するのではなく、小さなものが大きな組織を批判するために存在する。つまり、個人が小組織を、小組織が中組織を、中組織が大組織を批判するために存在する。もちろん、個人が大組織を批判するためにも存在する。もっと分かりやすく組織を限定して言えば、「表現の自由」は“政治権力”を批判するために存在する。このことを日本だけではなく、欧米のマスコミも理解していないと私は考えている。
5月22日の読売新聞の前川氏に対する報道は、みずからを貶め、みずからが三流新聞であることを告白する行為であった。しかし、私は日本の大新聞をはじめとする(いわゆる一流とされる)マスメディア(もちろん、NHKも含めて)が「表現の自由」を本当に理解しているのかどうか、疑問に思うことがよくある。
日本国内での最大の(権力)組織は日本国政府である。その最大組織の政府から流れてくる情報をよく吟味して、良いものは良いとして認め、悪いものは悪いとして批判することが大切である。が、無批判に政府情報を垂れ流すことが最近は増えているのではないだろうか。もし、悪しきものを無批判に垂れ流すなら、そのメディアは政府の広報機関であり、視聴者や読者から金を徴収するのはやめて政府から金をもらうべきだ、ということになる。
ここで注意しなければならないのは、日本政府よりも大きな組織がある、ということである。
それは、米国であり、中国である(ロシアを含めてもよい)。この大組織と日本が対峙したとき、日本のマスメディアが米国や中国の立場に立った情報を垂れ流すことが希でなくある。米国も中国も日本のような他国には甘い“お人好し”政権ではない。とくに、米国は巧みにあらゆる点で日本をコントロールしているように思われる(最近は[昔からもあったことであろうが]露骨に日本政府がマスコミを使って個人を攻撃するようだ。日本国民に対しては“お人好し”ではないようだ)。
米国と日本の間で対立が生じたとき(日本の立場に分がある場合でも)、日本のマスコミは大組織の米国を批判するのではなく、日本の対応を批判することがある。このような場合は、大組織の米国を批判し、日本政府を擁護すべきである。米国よりは日本の政府の方が批判しやすいのか、それとも米国が巧みに日本のマスコミをコントロールしているのか。
中国との場合でも、対立する場合には、日本のマスコミは大組織の中国を批判すべきである。しかし、私から見て、小組織の日本を擁護せず、大組織の横暴に沈黙していることがよくある。最近の日本人“スパイ”勾留問題にしても、“何もできないように見える政府”に成り代わって、マスコミが大組織の中国を批判する勇気を示すことはできないのだろうか。政府と同じく、何も言わないならば、中国の新聞が政府の意向通りの記事を書いているのと大差ないことになる。時には、政府が言えないことも、政府に成り代わって、発言することがあってもいい。
日本のマスメディアは、「表現の自由」は、“小”が“大”を批判するために存在するということを肝に銘じて報道にあたってほしい。大が小を批判する権利ももちろん存在するがこの場合は権利の行使に慎重を期さなければならない。マスメディアは常にできるだけ多数の日本国民の幸福のために「表現の自由」「報道の自由」を行使する使命がある。 (2017年6月24日記、6月26日追加修正)
※「表現の自由」について私のつたないホームページにもっと詳しく日本語と英語で述べています。興味のある方は参照していただければ、と思います。
米国のマスコミがトランプ大統領からフェイク(いんちき)呼ばわりされ、それを一定支持する層があるのは、米国の少なからぬ数のマスコミが既得権層(=大)からの情報を垂れ流し、国民(=小)を都合のよいように誘導しようとする報道姿勢が見え見えだからではないだろうか。日本のマスコミも米国の後を追い“大”に迎合し、国民(=“小”)を都合良く誘導しようとするなら、国民から見はなされることになるだろう。