南千住の大日本紡績橋場工場、紡績女性ら4,500人の大争議 1927年の労働運動(読書メモ)
参照「協調会史料」
大日本紡績株式会社橋場工場労働争議
場所 東京府下南千住橋場(本社は大阪市東区備後町、大阪平野工場、尼ヶ崎工場、明石工場など全国各地に多数)
労働組合 日本労働総同盟紡績労働組合
争議参加者 男女4,500人(うち女性2,592人)
寄宿舎 女性2,188人 男性132人
争議発生 1927年(昭和2年)6月3日
争議解決 同年7月18日
ストライキ 39日間
(半年前の大阪平野工場争議)
東京南千住の大日本紡績橋場工場の争議勃発の半年前の1927年1月、大阪市住吉区平野町の大日本紡績平野分工場(2,000人、うち女性1,600人)でも争議が起きていた。大日本紡績は労働組合に加入した労働者をすぐに首にする会社だった。1926年年末に30人労働者が総同盟・大阪紡績労働組合平野支部に加入して「寄宿舎の外出や出入り自由」「工場長らの排斥」等を要求し、示威行動とストライキの計画をした。それを知った会社は、即座に平野分工場の臨時休業を宣言し同時に25人の組合員を解雇してきた。
(橋場工場組合結成の運動)
日本紡績連合会では1927年金融恐慌を理由として、5月1日から1割5分の操短に入ると発表した。このため橋場工場では、男女労働者を強制的に休業させ、しかも休業日にはわずか一日25銭の手当しか払わなかった。労働者は労働組合を作って抵抗しようと、総同盟・東京紡績労働組合に駆け込み相談しながら、工場内で組合結成に向けて盛んに活動した。その動きを察知した会社は、6月2日、組合結成の中心的労働者11人を「社風に合わず」と解雇してきた。しかし、解雇された労働者はその場で解雇手当を敢然と突き返し争議がはじまった。
(争議団設置)
6月3日午前10時から工場付近において会社糾弾演説会を開催した。同日総同盟本部幹部が工場長に面会して解雇者の復職を要求したが、会社が拒絶したため、4日争議団本部を南千住汐入に設置した。
(ビラまきだけで検束)
6月4日、5日と大日本紡績橋場工場争議団と総同盟東京鉄工組合など応援団は、『時は来た四千の兄弟よ噴起せよ!!』のビラで「・・吾々は忙しい時には、一日十四時間も其の上もこき使われたではないか。まずい半麦飯を食わされて牛馬の如くこき使われてきたのだ。吾々はもう黙っている時ではない。一斉に起って会社と戦う時がきたのだ。」と職場の4千の仲間たちに呼びかけた。地域住民向けのビラも撒いた。この時南千住警察はこのビラまきだけで解雇者2人を含め8人も不当にも検束してきた。
(従業員大会)
6月5日泪橋近くの柳亭で従業員大会を開催し以下の要求を可決した。
要求
一、食事は国内米にして、麦は2割ぐらいにして下さい
二、通勤手当金は従来どおり出してください
三、他社なみの退職手当をだしてください
四、強制休業には日給全額を払ってください
五、今回の解雇者を復職さしてください
六、操業短縮で解雇者を出さないでください
七、労働組合の加入の自由を認めてください
大日本紡績従業員大会
昭和2年6月5日
*のちの追加要求
一、夜業手当2割支給
一、皆勤手当て
一、外出の自由
一、乳幼児のある者の夜勤の廃止
一、託児所を設けよ
(会社の妨害)
会社は5日の従業員大会を妨害する目的で、工場内で午前9時より職工慰安会を催し、労働者の大会出席を妨害した。
(会社要求書の受け取りを拒絶)
6日、争議団代表が工場に行き、要求書を渡そうとしたが、会社は「君らは従業員の代表ではない」と受け取りを拒否した。また、職場内でビラを配布した3人に出勤停止を命じてきた。
(応援)
東京紡績労働組合の女性組合員数十人が急遽一団となって応援にかけつけた。
(共同戦線の申し込み)
7日評議会関東化学労働組合が争議団本部を訪れ、金一封カンパと共に「我が組合の中にも橋場工場内に数名の組合員がいる。総同盟と共同戦線を張りたい」と申し入れた。しかし、総同盟側は「諸君が職場で争議を起こすのは勝手だが、総同盟としては他団体と共同戦線を張るつもりはない」と拒否した。
(夜11時スト突入! 全員で原動機室に押し寄せスイッチを切った)
6月10日夜半からストライキに突入した。夜番の労働者全員が夜11時に食堂に集合し、「深夜の従業員大会」を開き「賃上げ」等を新たに要求に入れる決議を行い、そのまま全員喊声を挙げて電機室に押し寄せ電力停止をはかった。また、作業所の電灯スイッチを全部を切断し、この夜工場は全面的に止まった。
翌11日午前6時からの早番と続いて昼番の労働者も全員がストに合流し大挙して原動機室に突入し動力を停止させた。労働者は「解雇者の復職」「超勤手当を従来どおり支払え」「強制休業には日給額を支給せよ」「乳呑児のある者の夜業を廃止し、託児所を設けよ」などの要求もだした。
(女性たちは『籠の鳥を救え』の布を胸に、街頭に立つ)
若い女性労働者は、『この憐れなる籠の鳥を救え』『会社の暴虐を懲らせ』などと書いた布を胸にかざり、銀座、上野公園、浅草橋、押上などで街頭宣伝に立った。総同盟本部も『大日本紡績の女工さんを助けよ!』と指令をだし、富士紡瓦斯紡績、鐘ヶ淵紡績、東洋モスリンなどの多くの組合員が一斉に応援に駆け付けた。
(工場食堂を占拠)
寄宿舎の男女労働者は、工場内の食堂を占拠し自ら作った労働歌を高唱し気勢を挙げた。
労働歌(大日本紡績争議団本部作 私のすうちゃんの節)
① 私のすかない工場長 屠り去るらは今なるぞ
② ぼくの愛する同志らよ 雄々しき姿の組合旗
③ 雨の降る日も風の夜も 虐げられたるその報い
④ 社長が横暴でわからなきゃ 夢のお告げをそのままに
⑤ もしも要求入れなけりゃ 仕事場投げ出しストライキ
(暴力団導入)
17日午前5時、会社は工場を閉鎖し、大阪で数百人の暴力団を雇い入れ、橋場工場を暴力で支配し寄宿舎の2千人の女性たちを工場内に監禁した。工場構内の集会・集合もすべて禁止された。寄宿舎の女性たちは負けじと労働歌を高唱するなど大いに抵抗した。会社は23日には新たに77人を首にしてきた。
(解雇した3人を門外に放り投げる)
会社は寄宿舎から、23日に解雇したうち3人を手取り足取り暴力的に抱え上げて門外に放り投げ追放した。急遽争議団本部から約200人が駆け付け工場内に突入しようと警官隊と乱闘となり、27人が南千住署に検束された。通勤男女約500人も争議団本部に集合し、争議団本部は炊き出しを行った。争議団は小船一艘を用意し、隅田川べりから工場寄宿舎内の女性たちと連絡をとりあおうとした。
(紡績労働組合橋場支部発会式)
橋場工場労働者のほとんど全員が総同盟紡績労働組合に加盟していたが、6月19日午前10時より浅草の元吉倶楽部において橋場支部発会式を挙行した。大部分は会場に入りきれず約500人が外にあふれた。出席は女性労働者約200人を優先した。4人の弁士が中止命令を受けた。
争議団は、以下の組織を作り責任者を任命した。総務、会計、記録、警備、伝令、訪問、調査、情報、炊事、応援。
(各地からかけつける応援部隊)
19日には、千葉の関東醸造労働組合野田支部など関東近辺の各地から大挙して応援部隊も駆け付け、午後一時頃には争議団本部前広場には約1,000人が集合し演説がはじまった。警察が解散を命じたため衝突が起きた。
(田舎の親を使って争議団切り崩し)
会社は暴力団を使って争議団を襲撃させる一方、女性の田舎の親に手紙を送り、争議団の女性たちの帰郷を促したため田舎の親たちは続々と上京してきた。会社の言い分に従った親たちは拉致同然に娘を連れ去った。6月27日までに泣き泣き連れて行かされた女性の帰郷者はついに839人にも達した。工場への出勤・スト破りも1,322人になった。
(会社のスト破りを勧める手紙)
再三の手紙によりまして工場の意のある所をよくご諒解下さいまして日に日にご出勤の方が増えてまいりましたが貴下は未だ御決心がつきませんか。御出勤を御勧めする時期はそういつ迄もつづいては居りません。御一家の安危の定まる時は今をおいて他には無かろうと考へます。此の際断固としてつまらぬ行きがかりは捨てて一時も早く御出勤なさる様心から御勧め致します。
それが只今の貴下のとらるへき賢明なる唯一の手段であると堅く信じるものであります。工場に於いても作業上の都合もありますから貴下の最後の御決心を願ひます。
すでに二十日以上を経過し貴下の御考えもよく承知して居ります故私共は誠意を以て貴下の味方となりどこ迄も御相談相手となりたいと思います。
直ぐ手紙にして御意見をお聞かせ下さい。
月 日
大日本紡績株式会社 橋 場 工 場
人 事 部
殿
(争議団東京全域で大宣伝)
総同盟と関東労働同盟会は、東京全域で『可憐なる籠の鳥を救え!!』『大日本紡績会社の女工さんを助けよ!!』と題するビラを1万5千枚市民に配布した。
「・・今や四千五百名の女工さんは一斉に起ってこの希望の貫徹のために戦いつつある。会社は数千名の暴力団を使用して圧迫しつつある。
『籠の鳥より監獄よりも寄宿舎住まいは尚つらい』同じ日本の国民ではないか! しかも可憐なる娘ではないか! 正義の心に燃ゆる人々よ!
数千万の女工を今日のままにして社会事業も宗教運動も国民正義の樹立も全く意義を失うのである。
女工解放のために彼女らを援助してください!! たとえ一銭でも
日本労働総同盟紡績労働組合本部」
(応援)
関東労働同盟東京モスリン吾嬬支部(支部組合員2,000人)の女性たちは連日数百人が応援に駆け付けた。東京モスリンの女性たちは、カンパとしてそれぞれ日給の一日分から二日分を提供した。争議団は、市内にカンパを求め各3.4人が一隊となり、『大日本紡績ストライキ 女工の解放を救え 寄付金募集 多少に拘わらず御誠意を』と白地に黒で書いたダンポール紙を持ち奮闘した。21日、数十人の応援組合員が、白米11俵、玄米10俵を満載した7台の荷車で、先頭には「争議応援米」と墨書した旗を高々とかかげ、喚声をあげながら争議団本部に届けた。
大阪方面の組合員とも連携し、状勢によっては全国の各工場で一斉に起ち上る計画も立てた。
(検事総長に抗議)
21日総同盟幹部松岡駒吉、片山哲ら5人は検事総長に面会し、以下の抗議をした。
一、大日本紡績争議で警察側は争議団員を多数検束し不当に圧迫している。
一、会社側は大阪より多数の暴力団員を雇い入れ争議団に対抗している。
一、寄宿舎を閉鎖し、寄宿者を外出させず不法監禁をしている。
(操業再開)
会社は6月22日より監禁している寄宿舎内の女性たちに就業を強要し操業を再開した。
出勤者
22日 寄宿舎1,728人中1,651人
23日 寄宿舎1,672人中1,602人
争議団は直ちに工場正門に殺到し警官隊の妨害を受けながら抗議の喚声を挙げつづけた。
(男子寄宿舎ろう城)
6月23日、会社は男子の寄宿舎の閉鎖を強行した。男子約50人を解雇し寄宿舎からの立ち退きを迫ってきた。男子約61名は寄宿舎にろう城しあくまで闘い続けた。会社はこの労働者への食事提供を止め兵糧攻めを行ってきた。
(ビラ配布)
22日、争議団は小名木川富士瓦斯紡績、王子東洋紡、市川の市川紡、亀戸の日清紡、墨田の鐘ヶ淵紡のそれぞれの工場正門で、同じ紡績労働者の仲間たちに向けたビラ『大日本紡績会社の女工さんを助けよ!(第二報)』を一斉に配布した。
23日、約500人の争議団員は午前9時より、北千住大橋、上野公園、錦糸堀、芝口、丸ビル前、銀座、浅草橋、押上、須田町、田町、芝園橋の11カ所で大がかりなビラ宣伝とカンパの訴えを行った。この日のカンパ総額は167円35銭だった。
(ろう城闘争)
25日午前9時、会社は寄宿舎男子61名のろう城闘争に暴力で襲撃してきた。組合員を手取り足取りで門外に放り投げた。これを知った争議団本部約200人が急遽工場寄宿舎前の門に押し寄せ警官隊と衝突した。投石等で警察官2人に負傷者がでたことで組合側9人が騒擾罪で検束された。
(1,000人の示威行動)
26日の日曜日は、争議団員約600人と応援部隊約200人で「ピクニック」の示威行動の予定だったが、警察は許可せず、やむなく約1,000人は争議団本部近くの広場に集合し、労働歌の合唱や随所で演説会を行い気勢を挙げた。警察はそれらを一々「中止解散」を命じる弾圧を繰り返した。
(メキシコ労働総同盟の訪問)
来日中のメキシコ労働総同盟(組合員200万人)のエミリオ・バラガンが争議団本部を訪問し、争議団の秩序ある闘いを賞賛し、正義と最後の勝利は争議団にありと熱烈なる挨拶と300円をカンパした。海員組合からも200円のカンパがあった。7月4日には上海工会組織統一委員会から日本紡績争議団に激励文が届いた。
(解雇手当の受け取りを拒否)
26日まで解雇者は77人にのぼっているが、解雇者は解雇通知書は全部を一束にして、26日夜会社事務所に投げ込んだ。77人は28日の解雇予告手当と賃金の支払いの受け取りを拒絶した。寄宿舎にろう城していた男子労働者は、6月27日午前10時に全員自発的に寄宿舎を出て争議団本部に入った。
(工場側)
6月28日操業再開一週間目、会社は全工場を休業し余興慰安会を催した。全国の関係工場からスト破りが動員されているが、鹿児島工場からもあらたにスト破り労働者100人が到着した。
(闘争資金)
7月1日、総同盟本部において関東労働同盟会理事会が松岡駒吉ら38名の出席で開催された。日紡争議への2,500円支出を承認し、また各労組からのカンパは総額3,100円と報告された。必要に応じ更に1,500円使用の権限も認められ、尚不足の時は2千円を限度として借り入れの権限も執行委員会に与えた。各組合は争議支援カンパとして組合員1名当たり20銭の負担が決まった。 人権並びに団結権蹂躙に対し、当局と紡績聯合会に対して強硬なる抗議警告を行うことも決議された。
(大阪聯合会の大がかりな支援)
大阪聯合会は、大日本紡績尼崎工場、津守工場、福島工場、杭瀬工場、摂津工場、平野工場、明石工場の労働者に向けて数回にわたり10万枚のビラを配布した。また、大阪聯合会の青年前衛隊は連日社長菊地恭三、福本工場長などの重役宅に出向き交渉と抗議行動を展開している。この大阪の仲間の猛烈な行動に関西の工場の同じ呻吟している仲間たちが決起しないわけがないと橋場争議団は喜んだ。
現地でも東京紡績労働組合吾嬬支部約100人が毎日応援に駆けつけている。7月1日午前11時頃に、埼玉より東京鉄工組合川口支部83人も駆け付けた。
(メキシコの仲間を見送り)
28日に争議団女性80人と男性40人はメキシコ労働総同盟のエミリオ・バルカンに東京駅にて、また29日は横浜港で感謝を込めて見送った。
(1,200人のピクニックの大デモンストレーション)
7月3日、争議団は南綾瀬村堀切の荒川放水路でピクニック、「遠足・運動会」を行った。先年の東京モスリン争議と同じ計画なので警察も認めざるを得なかった。争議団員約800人、東京紡績労働組合吾嬬支部など約400人、総計1,200人。遠足は一団50人とし遠足の最中は労働歌の高唱は禁止された。総同盟本部の労働婦人連盟は赤松明子、松岡勝代ら女性幹部が全力で応援した。
1,200人は午前11時50分争議団本部を出発し、橋場工場正門前を通過し、白髭橋を渡り向島堤を左折し、鐘ヶ淵紡績工場前を通り、荒川放水路堤に登り、堀切橋を渡り、午後1時半に目的地の荒川放水路綾瀬の堤に到着した(行程1里弱)。遠足の最中は労働歌の高唱は禁止されてはいたとはいえ、界隈を揺るがす堂々のデモンストレーションであり、会社にも警察にも大きな打撃を与えた。綾瀬の堤では約2時間付近を自由に食事・散策・運動をし午後3時半に帰路についた。
参加者
争議団員 女350人 男200人
東京紡績吾妻支部 女400人 男100人
日本縫工組合 30人
東京革工組合 30人
その他 100人
合計 1,210人(女770人、男440人)
7月4日各労組から続々と白米などが寄贈されている。
(争議団ビラ)
7月7日争議団は、毎日、在京の重役自宅とその周辺に『大日本紡績重役の暴虐を懲らせ!!!』『可憐なる籠の鳥の少女を救え!!!』のビラを配布し会社に回答を迫った。
通勤者から寄宿舎の女性たちに向けたビラ『籠の鳥の私が友よ!!!』
籠の鳥の私が友よ!!
たいへん暑くなって来ましたが無事で居りますか、
私共はあなた方のことを心配して居るのです。
しかし、中と外とはまるで別天地、便りすることも出来ない哀れさ!
毎日私共の歌う歌の声が聞こえますか。
外では皆大元気で、一日も早く皆様も私共と共々に幸福になるように戦って居ります。
世間の人達は誰一人私達労働者に同情しないものはありません。
今に会社も考えなおしてくれるに相違ない。
不自由をガマンして堅く団結していて下さい。
必ず皆さんを救います。
日本労働総同盟紡績労働組合
橋場工場通勤者一同
(組合切り崩しの状況)
会社は、スト破りの募集を全国・地方で行い、栃木県地方の女性165人などを赤羽から船に乗せ荒川を下り、工場裏手の河岸から工場内に入れた。また会社側の手先の事務員らが争議団の軟派罷業労働者を説得し、6日夜男19人、女6人を秘かに工場内に収容した。5日の定期休業日。会社は、女工をなんとしても外出させまいと終日寄宿舎食堂において余興を催した。この日の就業人数は1,426人。
(争議団本部広場で映画会)
7月9日夜半、争議団本部前広場で争議団約500人、地域住民約500人が参加した映画会が行われた。「ドンドロボリ」「青い目の人形」など3作品が上映された。
(白米を荷台に満載して工場正門へデモ)
10日争議団は、午後1時頃白米30俵を満載した何台もの荷車を先頭に、工場正門前で果敢なデモを行った。3名が検束された。
(評議会の応援再び拒絶)
11日午後6時、評議会の関東金属労働組合、東京合同労働組合、関東地方評議会が、再び争議団本部を訪れ、カンパと今後の応援を申し入れてきたが、総同盟は今度もこれを拒絶した。
(夜業も再開)
会社は8日からは夜業も再開した。
11日の就業
昼業 女873人 男144人
夜業 女573人 男 44人
(調停)
11日、会社は協調会情報課長を通じ、総同盟関東同盟会会長松岡駒吉に働きかけた。会社と松岡駒吉の間でボス交渉が始まった。
(重役の娘の学校生徒に向けビラ配布)
争議団は7.8人を一隊として、連日会社重役自宅に押しかけ面会を求めた。また7月13日、常務取締役有賀松彦の娘有賀潤子の東京高等音楽学校の全校生徒向けに宣伝ビラ『音楽学院の学生諸君に訴ふ‼』『可憐なる籠の鳥の少女を救へ‼』を配布した。
(工場側)
13日、再び栃木方面より女性126人、鹿児島方面で募集した男189人を加えて、現在1,483人が就業している。
(警視庁の組合幹部総検束攻撃)
13日警察は、工場正門にて2人の争議団員を検束し、また社宅付近で9人を検束し、うち6人を警察犯処罰令違反で勾留各20日から15日に処した。
15日、松岡駒吉は争議団本部前広場で約350人(うち女性200人)を前に激烈なアジテーションを行った。警察官が中止命令をだしたが松岡は演説を止めず、全労働者は総立ちとなり「警察官の横暴なり」と叫び、乱闘となった。上野警察署の巡査部長ら3人は溝中に突き落とされた。ついに松岡以下争議団幹部(男性140人、女性8人)が全員検束されるという前代未聞の異常事態が起きた。その後松岡らはすぐに釈放されたが、122人は引き続き取り調べを受け拘留されている。
(警視庁の争議調停)
争議団幹部を全員検束・拘留しておいて、警視庁の調停課長が積極的に調停に動いた。7月18日、会社は解雇者88人のうち20人の解雇を撤回し復職を認めた。またスト中の期間日給の三分の一の支給と金一封(4千円)を内密に支給すると回答した。7月18日以下の労資協定が締結された。
(協定内容)
一、会社は従業員の待遇改善については会社の事情の許す限り誠意をもってこの実行を期すること
二、会社は復職者に対し、罷業中における生活状態を考慮し相当な手当を支給すること
三、会社はすでに解雇した者以外に、今回の争議に関し解雇その他の処分をしないこと
四、会社は全解雇者に対し、金弐万壱千八百円を解雇手当として支給すること
尚会社が6月2日に解雇した者は労働組合員たるの故をもって解雇したものでない事を付言する。
昭和二年七月十八日
(争議団解散式)
20日午後5時争議団約500人(うち女性200人)は争議団万歳を三唱し解散式を挙行した。
(南千住巡査今泉銀太を告発)
争議解決後、総同盟は南千住巡査今泉銀太が、争議の過程で大日本紡績から多額な金品を贈与され、争議団員多数の検束に加担した行為の証拠をつかみ告発した。しかし司法官憲は今泉巡査を起訴猶予としてなんら制裁を加えなかった。総同盟はあらためて8月20日に抗議声明を発表した。
以上