秋元皮革会社労働争議 1927年の労働争議(読書メモ)
参照 「協調会史料」
秋元皮革株式会社労働争議
場所 東京府下吾嬬町 秋元皮革株式会社(皮革品製造)
発生日 1927年(昭和2年)7月12日
労働者数 68人
労働組合 総同盟東京革工組合(55人)
評議会関東皮革労働組合(23人)
(全労働者事務所に押寄せる)
7月12日、夏のボーナスが労働者に7円から5円という低額な前期の半額だったため、怒った労働者全員が事務所に押し寄せた。全労働者は13日には出勤はしたが、誰も働こうとはしなかった。全員のサボタージュ闘争だ。工場支配人は「個人として金一封100円を支給したい」と回答してきたが、労働者側はこれをはねつけた。翌14日から両組合とも全面ストライキに突入した。
(工場全面休業)
14日、会社は従業員がこのような行動に出るのは一部不良職工の策動に違いないからと突如工場の全面休業を宣言し、強硬な態度を示してきた。
(二つの労働組合)
55人は総同盟東京革工組合に加盟し、23人は評議会系の関東皮革労働組合に加盟していた。二つの組合は職場でのストライキを共に闘っていたが、会社との交渉は別々に行っていた。
(もともと会社は、25人解雇を決めていた)
会社には製革部と原料販売部の二つの部があったが、損失続きの製革部をこの際縮小し、合わせて従業員25人を解雇する方針を決めていた。7月26日、27日と会社側弁護士は総同盟東京革工組合と評議会関東皮革労働組合と別々に会い、労働者25人の解雇を告げた。労働者側は25人の解雇には反対するだけでなく、休業中の賃金全額支給を要求した。
(総同盟・東京革工組合)
55人は毎日吾嬬町葛西川の争議団本部に詰め、炊き出しをした。総同盟東京革工組合、紡績労働組合橋場支部、同吾嬬支部が応援に駆け付け争議団と共に気勢を挙げた。
(評議会・関東皮革労働組合)
関東皮革労働組合の23人は吾嬬町木下川村の空き家を争議団本部とした。
(解雇強行)
8月1日、会社は総同盟側の労働者24人、評議会側労働者1人に対し、それぞれ内容証明郵便で解雇通知を発送してきた。総同盟側30人が工場に押しかけ、この解雇に応ずる者は一人もいないと解雇通知を突っ返した。関東皮革労働組合側も1人の解雇撤回を要求したが、工場長は「総同盟側との対抗上今直ちに復職させることは無理だが、適当な時期を見て考慮したい」と回答した。評議会側はこれを受け入れ、争議団員は休業手当日給半額分を受け取った。
総同盟側は会社重役宅訪問抗議などの行動をしたが、評議会系の関東皮革労働組合側はさしたる積極的動きをしなかった。
6日、総同盟側と会社は、11人の解雇撤回と解雇13人で妥協が成立した。
(解決)
8月7日二つの組合はそれぞれ会社と以下の協定を締結した。
覚書(総同盟・評議会)
一、解雇者13人(1人)を承認する。ただし解雇手当とは別に金一封を一人につき150円支払う
一、労働組合を承認する
一、新規採用に当たっては、優先権を今回の被解雇者に与える
一、争議中の日給半額を支給する
一、今次の問題に対し、組合は深くこれを遺憾とし陳謝の意を表する
以上