昨秋、知覧特攻平和会館へ行き


若くして散った命、目的遂行の為には命を投げ出す事も辞さず、未来の日本のために、家族のために・・・
家族に認(したた)めた遺書の達筆さ、一文字一文字の力強さ、「靖国で会おう」彼らの覚悟に涙した。
そして先日はとある業務にて大刀洗平和記念会館へ。

久留米の隣町にあるにもかかわらず訪問するのは初めてだった。



国内に残された数少ない零式艦上戦闘機(通称:零戦)の操縦席の狭さに、「こんな狭い所で何を考えてたんだろうか?どんな気持ちで敵空母に向かって行ったんだろうか?」何とも言えない感情が込み上げる。
そして自分のあまりにも無知なことに忸怩たる思いをする。
大刀洗飛行場の歴史は古く、大正8年に大刀洗陸軍飛行場として作られたこと。
当時は東洋一の飛行場と称されていたこと。
B29より大空襲により壊滅的被害を受けたこと。
その中の一発が頓田の森(旧・甘木市、現・朝倉市)に避難している小学生達に直撃。たった一発の爆弾により、1年生から6年生までの30名を超える児童が一瞬の内に爆風で体を引き裂かれ、その体の一部が周りの木々や電線にぶら下がっていたこと。
そして何より、知覧は『大刀洗陸軍飛行学校知覧分校』として設立されたこと。
何にも知らなかった自分に自責の念にかられた。
知覧では遺書や家族への手紙から特攻隊員の気持ちを強く感じ取った。
だが大刀洗では残された家族側の気持ちになる。
それは、母に宛てた手紙。そしてアメリカ軍が落とした1発の爆弾による爆風で虐殺された児童の写真を見たからだろう。
誤解を恐れずに言うと、特攻隊員は目標を持ち命を捧げられた。そう言った意味では幸せだったのかも知れない。
だが残された家族は・・・特に母はどんな気持ちで死に行く、死ぬ為にだけに飛び立つ我が子を送り出したんだろうか?
母性がどういう物かは理解出来ないが、身を切るより辛かっただろうことは想像に難しくない。国を守る為とは言え、歯を食いしばり笑いながら見送ってくれた母の最後の愛情に涙せずにはいられなかった。
『戦争論』を書いた福岡出身のある漫画家の言葉を思い出した。
中韓にゴチャゴチャ言われようと靖国神社を参拝することは日本人としての義務であり、アメリカ白人主義者達が行った日本人の大量虐殺は忘れてはならない・・・・この言葉の意味が少しだけわかる気がした。
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