比較的幼い時だったように思う。テレビはどこか外国の動乱のような場面を映し出していた。そこには報道記者も混じっていた。群衆の混乱の中を記者はその波にはじき出されまいと駆けている。私は、不思議に思って母に「あの記者の人はあんなところにいて大丈夫なの?」と尋ねた。母は笑いながら
「ああいう人らは撃たれないことになってるの」と言った。
母の言葉が嘘か本当かは分からない。一昔前はそんな暗黙の了解があったのだろうか?戦争のさなかでも医者や看護師を撃とうとしないように。勿論これは戦争時における取り決めではあると思うが。
しかし、最近はどうも様子が違ってきている。昔だって記者やカメラマンがいくらでも犠牲になっていたというが、彼らを狙わないというある種の不文律のようなものが確かに存在していたような気がする。しかし、故意に報道記者が狙われたとしか思えない場面が最近では知っているだけで2度ほどあった。やはり世界はどんどんおかしくなってきているのだろうか。
自己責任と言う言葉がイラク戦争以後まるで水戸黄門の「えーい。静まれ。静まれ。この紋どころが・・・・」的に使われだした。そう言ってしまえばなにもかも簡単である。崇高な思いで何かを成し遂げようとしている人に対して自己責任で片づけてしまってよいものだろうか?問題はそんな人達が目的を達することができるような世の中を願い、後押しすることではないかしら?
テレビしか見ていない人は後藤氏の本当の素顔を知らないと書いていた人がいる。しかし、、逆にネットでしか知識を得ない人もこれまた偏っている。ちなみに小泉元総理を検索してみると信じられないことばかりが載っている。テレビや新聞、ネットとさまざまな情報を得て自分の良心や、自分の知識洞察力と相談しながらどれを信じるかだろう。
しかし、首相の中東訪問もさることながら、あれは、やはり失言だったのではないかといまだに思えてならない。いくら正しいことだと釈明されても、正しいことばかり言って為政が成り立っているだろうか。
イスラム国と闘うところに2億円支援すると言う言葉を聞いたときはそれこそわが耳を疑った。この時期になんてことを!それにオリンピックだって控えているというのに。やはり『朝生』でそのことが話題になっていた。一体だれがそんなことを言わせたのだとか。しかし、だれが筋書きを書いたところで責任は総理自身にある。発言が不適切だと思えば検討すればよい。そんな話題が出ると言うのはやっぱり安部総理にはゴーストライターがいると言うことなのか。
案の定2億ドル要求された。勿論その言葉があってもなくても何らかの要求をされたのかもしれない。しかし、トリガーはあの言葉に尽きる。金額はさておき、難民となった人達への人道支援を約束するとだけ言っておけばよかったのではないか。
絶望の中で死んでいった人。あなたを知らない多くの人たちがあなたのために祈り心配したことをあなたは知らずに命を断たれたのだろうか。せめてそれが届いていたなら少しは救われただろうに。