がアメリカにいた1987年~1993年の間は大勢の日本人がロスアンゼルスやオレンジカウンティーの地域に住んでいて、その時のリトル東京はとても賑わい活気がありました。
リトル東京のあるロスアンゼルス周辺には多くの日系人が住み、日系人にとっては日本の文化、社会等を知り学べる中心地でもあります。
何時頃どのようにして、リトル東京が形作られたのか興味がわきその歴史を調べてみる事にしました。下記の文献が手に入り、その日本語訳の一部を記載したいと思います。 「A Project of Visual Communication /Asian American Studis Central,Inc.Funding Provided Little Tokyo Centennial Committee Los Angeles 」(古本)
1885年日本人が小さいレストランを開いたのが、これがリトル東京の発祥と言われている。
その頃には、既に24人ほど日本人が仕事を求めてロスアンゼルスに来ており教会の地下室が彼らのたまり場としていた。
東一街は舗装整備も未完成で埃だらけの通りで周囲といえば農場か果樹園しか見当たらなかった。
日本人の人口も70人ほどになり、大半は白人家庭の使用人か、日系人の経営する小店舗の雇用人として働いていた。
1890年代にはロスアンゼルスも目覚しい成長をとげ、鉄道会社が日本人を貨物列車の掃除や鉄道の修理に雇うようになった。
1897年サンフランシスコ領事館に代わって、日本人会の設立、日本人と白人間の騒動の仲裁や会員に対する差別待遇の抗議など、日本人社会で山積していた。
その頃排日感情が一段と厳しくなる。
リトル東京のあるロスアンゼルス周辺には多くの日系人が住み、日系人にとっては日本の文化、社会等を知り学べる中心地でもあります。
何時頃どのようにして、リトル東京が形作られたのか興味がわきその歴史を調べてみる事にしました。下記の文献が手に入り、その日本語訳の一部を記載したいと思います。 「A Project of Visual Communication /Asian American Studis Central,Inc.Funding Provided Little Tokyo Centennial Committee Los Angeles 」(古本)
1885年日本人が小さいレストランを開いたのが、これがリトル東京の発祥と言われている。
その頃には、既に24人ほど日本人が仕事を求めてロスアンゼルスに来ており教会の地下室が彼らのたまり場としていた。
東一街は舗装整備も未完成で埃だらけの通りで周囲といえば農場か果樹園しか見当たらなかった。
日本人の人口も70人ほどになり、大半は白人家庭の使用人か、日系人の経営する小店舗の雇用人として働いていた。
1890年代にはロスアンゼルスも目覚しい成長をとげ、鉄道会社が日本人を貨物列車の掃除や鉄道の修理に雇うようになった。
1897年サンフランシスコ領事館に代わって、日本人会の設立、日本人と白人間の騒動の仲裁や会員に対する差別待遇の抗議など、日本人社会で山積していた。
その頃排日感情が一段と厳しくなる。