アメリカ生活の想い出

1987年から5年間アメリカで過ごし全く英語が出来ないのに、地元のお年寄りと知り合い学び楽しく過ごした記録です。

第八章 リトル東京

2009-02-12 07:03:22 | Weblog
がアメリカにいた1987年~1993年の間は大勢の日本人がロスアンゼルスやオレンジカウンティーの地域に住んでいて、その時のリトル東京はとても賑わい活気がありました。
リトル東京のあるロスアンゼルス周辺には多くの日系人が住み、日系人にとっては日本の文化、社会等を知り学べる中心地でもあります。

何時頃どのようにして、リトル東京が形作られたのか興味がわきその歴史を調べてみる事にしました。下記の文献が手に入り、その日本語訳の一部を記載したいと思います。 「A Project of Visual Communication /Asian American Studis Central,Inc.Funding Provided Little Tokyo Centennial Committee  Los Angeles 」(古本)

1885年日本人が小さいレストランを開いたのが、これがリトル東京の発祥と言われている。
その頃には、既に24人ほど日本人が仕事を求めてロスアンゼルスに来ており教会の地下室が彼らのたまり場としていた。
東一街は舗装整備も未完成で埃だらけの通りで周囲といえば農場か果樹園しか見当たらなかった。
日本人の人口も70人ほどになり、大半は白人家庭の使用人か、日系人の経営する小店舗の雇用人として働いていた。

1890年代にはロスアンゼルスも目覚しい成長をとげ、鉄道会社が日本人を貨物列車の掃除や鉄道の修理に雇うようになった。
1897年サンフランシスコ領事館に代わって、日本人会の設立、日本人と白人間の騒動の仲裁や会員に対する差別待遇の抗議など、日本人社会で山積していた。
その頃排日感情が一段と厳しくなる。

カレッジにあるESLで学ぶ(2)

2009-02-11 04:49:55 | Weblog
先生は読書をとても薦めていました。
カレッジの図書館には、私たちが借りられるコーナーがあるからと教えて、そして自分達のレベル以上の本をどんどん借りて読みなさいと、授業がある度に言っていました。
は、早速図書館に行きました。
色々な本を借りて読みました。日本では小学5,6年のレベルではないかと思います。

読んだ本で一番印象に残っているのは作者 ジョン・スタインペック の 「怒りの葡萄」 でした。
日本語で翻訳した本は既に読んでいましたが、原本を(子供向き)を読んでいると夢中になり涙が出てきて止まりませんでした。
翻訳した本を読んだときは涙が出なかったので、原本との違いがよくわかりました。

カレッジの学生証を持っていると色々な施設が使えました。
教科書や文具を購入するためにショップに行くと出入り口に沢山の四角い箱が積み重なっていて、その中にリュックサックや手提げかばんを入れ、お財布だけもってゲートから入ります。
文具類は安く、倉庫のような奥の部屋に教科書が沢山あり、その中から決められた教科書を選び、出口で支払いを済ませますが、荷物を持って入れないようにしているのに感心しました。

カフェテリアでは食べ物がとても安く、サンドイッチや飲み物を選び出口で支払いを待っていると、若い男の人たちはお財布からでなくポケットから小銭を出して支払っていました。
私は授業は一日も休まず、真面目に勉強したので単位ももらえました。

カレッジに入学するにはESLで学んだ学力と入学に必要な書類や条件を満たしていれば入れますが、それは私にはとても無理なので、レンガ建築のカレッジに通うだけで満足していました。

カレッジにあるESLで学ぶ

2009-02-10 05:37:32 | Weblog
アダルトスクールにベラさんとサビーナがさんがこなくなり寂しくなりました。

アダルトスクールの少し離れたところにOCカレッジがあり、ESL(English as a Second Language)の語学研修プログラムがありました。
正規留学生を目指す人が対象でした。大学進学は私の夢でした。試しに試験を受けてカレッジで勉強したくなりました。
こちらは年齢に関係なく門戸は開かれていました。いつもの「あたって砕けろ」の気持ちでESLのオフィイスへ行ってみると、その日に直ぐに  試験を受けさせられました
試験の問題を聞いてもよくわからないので、適当に答えをだして、とても受からないとあきらめていたのですが受かったのです  落ちた人もいる話を聞いていたのでまぐれで入ったと思っても嬉しかった

カレッジのオフィイスで学生証とを駐車場に停められるステッカーをもらい教室に行きました。
若い生徒ばかりで私が一番年上でした。アジア系やメキシカン系の生徒が多く、一人だけ日本人の女生徒(高校を卒業したばかりの若い人)がいました。レベルは一番下でしたが、最初に教科書と薄い小冊子を渡されました。
先生は男の先生で奥さんは日本人だと話していました。
授業はとてもわかり易く、小冊子を何度も読まされました。この物語が結構面白いんです



アダルトスクールで知り合った人達(3)

2009-02-07 12:54:06 | Weblog
サビーナさんとは席が隣だったので話しをするようになりました。
彼女はより年下で、気の弱い人でした。
そして、とても周りに気を遣う人でした。でも頭のいい人で先生に指されて黒板に書く答えは正確でした。
当時彼女には婚約者がいて結婚を楽しみにしていました。
私が後日、日本へ帰国する時に彼女に自動車を譲りましたが、免許を取るつもりだったのですが度胸がなく取らなかったようでした。
結婚してゲートつき(連絡してゲートをあけてもらう)の高級なマンションに住んでいましたが、マンションのプールにも誰もいないことを確認して泳ぐとの事、私の友達は マサコ だけよと言っていました。

ベラさんは私よりも年上で、ご主人と2人でコンドミニアムを購入して暮らしていました。
ベラさんのほうから私に話しかけてくるのですが、話がよくわからないのです。お年のせいか自分勝手に判断してしゃべりまくっていました。でもその度胸はたいしたものだと思いました。
勉強はそれほど熱心でなく話をしに来ていたようで、家に遊びに来てと何回も言うので、当時日本から娘が遊びに来ていたので、2人ベラさんの家へ訪問すると、とても温かいもてなしをしてくれました。
ベラさん夫婦はチェコにも家があり、アメリカとチェコを行き来していました。

私たちは日本にかえってからもお付き合いが続きご夫婦の国チェコへ、と二人で自分達で計画し、オーストリヤ観光とチェコの田舎へ遊びに行き、家に泊まらしてもらいました。アダルトスクールで知り合い、チェコの田舎へ行けるとは思ってもいませんでした。

アダルトスクールで知り合った人達(2)

2009-02-06 05:15:59 | Weblog
Syoujiさん(台湾の人と結婚した人で旧姓です)
より10歳年上の人です。
元気で気力の満ち満ちている人でした。
ご主人が亡くなり、娘さんがアメリカ人と結婚したのでこちらで永住するためにきたそうです。
娘時代は日本で、結婚生活は台湾で、老後はアメリカで変化に満ちた人生を送っている人でした。 
台湾で日本語の先生をしていたので英語の勉強もとても熱心で家で毎日2時間も復習するそうです。 
は、ものすごい大酒のみで学校に来ないときは朝から飲み続け大きなボトルをすぐ開けるそうです。
タバコの量もすごいの
顔色があまりよくないので心配でしたが、本人は今まで一度も医者に見せたことがないそうで、これからも絶対に医者の世話にならないといきまいていました。

彼女はとてもスタイルのいい人で、ある日、白いチャイナードレスを着て歩いていると、後ろから肩をトントンと叩かれたので振り向いたら、ギャアーといって若い男の人が逃げていった行ったそうです。
彼女は私に話してプンプン怒ってました。
後ろ姿とあまりにも違うので吃驚したのでしょう 気絶しないでよかった

アダルトスクールで最初に知り合ったあった人たちは転勤になったり、引越ししたり、日本へ帰国したりしてみんないなくなりました。又新しい知り合いが出来ました。ドイツ人のサビーナさんとチェコ人べらさんです。

アダルトスクールで知り合った人達

2009-02-05 10:46:08 | Weblog
Hidekoさん (駐在員の奥さん)
よりも若い人です。私と同じ時期にアメリカに来た人です。
以前にフランスで過ごしたことのある人で英語の勉強はのみこみは早いようでした。
白黒をはっきりさせる人で男性的な感覚の持ち主、自動車の運転もカルフォルニアの免許を取ってから直ぐにフリーウェイに乗ってお客さんを迎えにいった話を聞いてびっくりしました。
日本でもフリーウェイに乗っていたとの事ですが彼女の自動車に乗せてもらった時は主人と同じ運転の仕方をするので男性的な運転をする人だと思いました。
こんなにお上手な人なのに免許を取る時に実技で一回落ちたから、貴方も必ず落ちるわよと言われたのですが、運がよかったのか 1回でパスしてしまいました
次はスピード違反で捕まったので貴方も必ず捕まると言われましたが、私はフリーウェイにも乗れないのにスピード違反で捕まるとは考えられません。

Midoriさん(ご主人が寿司職人)
知り合った人の中では一番若い人です。
アメリカに遊びに来て結婚し3歳と5歳の男の子がいます。
無一文から今の生活を築きあげてきた人で家庭を大切にしている人でした。
とてもモダンな人で髪の毛を染め、いつも綺麗にマニキュアをしていました。
彼女によってマニキュアも沢山の色があることを知りました。
当時はまだ日本では毛を染めたり爪にマニキュアを塗ることは流行していない頃です。


第七章 アダルトスクールで英語を学ぶ

2009-02-04 19:56:35 | Weblog
は自動車の運転ができない時はよくバスを利用してあちこち出かけました。
駐在員の奥さんたちが学んでいる無料で英語を教えているアダルトスクールがある話を聞きバスで早速行ってみました。
多くの移民を受け入れて、英語を母国語としていない人のために作られた学校です。
スクールの窓口に行くと少しの会話だけでレベルを決められ振り分けられました。
は下のレベルだったが、教えている先生もアダルトスクールで学び就職して働きながら大学に行き資格を取った話をしていました。
1クラス20人ぐらいで中国人、フランス人、メキシコ人、ドイツ人、チェコ人など各国の人がいて、年齢は若い人からお年寄りまでいました。
授業は英語の基礎や就職するために必要なことなど丁寧に教えてテストが何回もありました。
ここで日本人の知り合いが出来ました
。個性のある人たちでお話をしていても楽しく色々とお互いに情報を交換しあいました。お友達にはなりませんでしたが、いい想い出になりました。

Reikoさん(駐在員の奥さん)
私より少し年下ですが東京のお嬢様育ちで、ニューポート ビーチのアパートに住んでいました。彼女専用の高級車(キャデラック)に乗っていました。も暫くの間アダルトスクールの帰りにいつも乗せてもらいました。超美人でお洒落で、そして華奢なかたでしたが勉強が好きで学校はほとんど休まず通っていました。一番上のクラスにいて他国の人と楽しそうに話していました。