美の五色 bino_gosiki ~ 美しい空間,モノ,コトをリスペクト

展覧会,美術,お寺,行事,遺産,観光スポット 美しい理由を背景,歴史,人間模様からブログします

本のレビュー「幻の五大美術館と明治の実業家たち」 ~名品の流転が詳細に

2018年10月20日 | 名作レビュー

祥伝社新書「幻の五大美術館と明治の実業家たち」を読みました。

明治から戦前までに巨万の富を得て屈指のコレクションを築き上げた男たちの物語で、所蔵品を公開する美術館開設を成し遂げられなかった5人にスポットをあてています。

個人コレクションを母体とする美術館で、現存する主なところを上げると以下になります。

江戸時代以前から続く財閥・大名系

  • 徳川美術館、毛利博物館、永青文庫、三井記念美術館、泉屋博古館

明治~戦前の実業家系

  • 静嘉堂文庫美術館、根津美術館、五島美術館、ブリヂストン美術館、出光美術館、山種美術館、藤田美術館、大阪市立東洋陶磁美術館、大原美術館


これだけでもそうそうたるラインナップですが、これら美術館のコレクションは5人の男たちの旧蔵品から形成されたものが少なくありません。美術品の流転は古今東西ありますが、日本でも大きなドラマがあったことに強い関心を持ち、この本を手に取りました。

一人目は明治の三井財閥の大番頭・益田孝(ますだたかし)。美術ファンなら鈍翁(どんのう)という彼の茶人号を耳にしたことがある方も少なくないでしょう。益田は東京・京都・奈良国立博物館が所蔵する数多くの国宝クラスの仏教美術や源氏物語絵巻などを所蔵していました。晩年になって小田原に土地を取得し、美術館建設の構想を練り始めますが、太平洋戦争が始まる前に生涯を追えます。

益田の所蔵品は所有を財団法人に移管していなかったため、終戦直後の最高税率90%の財産税でほとんどが売立てに出され散逸することになります。源氏物語絵巻はその後五島美術館が入手し、今に至ります。

益田は、美術商の間では「値切ってくる」で有名だったそうです。また高額すぎて売れなかった佐竹本三十六歌仙を36分割して売却した当人でもあります。切り刻まれていなければ、国宝間違いなしの超一級品です。

益田に近い世代の藤田伝三郎や根津嘉一郎は、逆に「値切ってこない」ことで美術商の間で有名でした。藤田と根津の子孫は、よく知られているように大阪と東京で日本有数のコレクションを大切に守る美術館を現在も運営しています。

益田の美術品への思い入れを知るにはさらなる勉強が必要でしょうが、コレクションの継続性に関係する重大なエピソードのように思えてなりません。


近鉄グループが運営する奈良・大和文華館

二人目は原富太郎(はらとみたろう)です。茶人号の三溪(さんけい)の方がよく知られているでしょう。製糸業で巨万の富を築いて、横浜経済界のリーダーとなっていきます。

彼の名を著名にした横浜の三溪園に、京都・鎌倉などで取り壊されようとしていた茶室などを買い取り移築しています。現在の明治村のような発想ですが、彼は何と1906(明治39年)から三溪園を公開しています。また安田靫彦・小林古径・前田青邨ら若手画家も支援していました。とてもフィランソロピー精神にあふれた人物だったようです。

しかし関東大震災が彼の数寄者としての運命を変えていきます。美術品蒐集よりも復興に私財を投じるようになっていきます。三溪園内への美術館建設計画は続いていたようですが、近づく戦争の陰もあり、彼自身が生涯を終えたことで頓挫します。

原家も美術品を財団法人に移していなかったため、戦後に多くを手放すことになります。しかし益田孝所蔵品ほどの大々的な散逸は免れたようです。孔雀明王像は東博、寝覚物語絵巻は大和文華館、というようにある程度まとまって譲渡されていったためです。

現在の大和文華館の至宝の作品には三溪旧蔵品が多く含まれます。三溪のフィランソロピー精神は横浜と奈良に分かれて生き続けているのでしょう。

三人目の川崎正蔵(かわさきしょうぞう)は、現在の川崎重工(旧:川崎造船)や旧:川崎製鉄(現:JFEスチール)の源流となる神戸を拠点とした川崎財閥の創業者です。早くからコレクターとして知られた正蔵は、現在の山陽新幹線・新神戸駅にあった広大な邸宅に、1890(明治23)年に川崎美術館を開設しました。1872(明治5)年開設の文部省博物館(現:東京国立博物館)に次いで古い日本最初の私立ミュージアムでした。



四人目の松方幸次郎(まつかたこうじろう)は、正蔵が川崎造船の後を託した人物です。第一次大戦の造船好況で得た巨万の富で一大西洋絵画コレクションを築き上げます。後の昭和金融恐慌で会社が倒産し、第二次大戦の混乱でもコレクションの多くを失います。フランスから返還された収集品の一部が、国立西洋美術館設立の基礎となった「松方コレクション」です。

五人目の林忠正(はやしただまさ)は最も知られていない人物でしょう。明治にパリで活躍した美術商で、山中定次郎と共に明治期に欧米で日本美術を売りまくった人物です。明治期にフランスで火が付いたジャポネスク・ブームは、林と画商仲間のサミュエル・ビングが積極的に紹介したことが大きく影響しています。

林は日本美術を売る傍ら、19cの西洋絵画も積極的に収集していました。日本で美術館を造り公開したいと考えていたのです。しかし日本への帰国直後1906(明治39)年に林は病没します。林の死とともに美術館構想も消え去り、コレクションも売立に出され散逸しました。

5人のコレクションの仕方や所蔵品の流転が詳細に語られており、そこからは人柄も垣間見ることができます。現在の美術館の目玉コレクションがどのようにできているのかもよくわかります。大河ドラマのように、コレクターの人生という川の中を美術品は流れていったのです。





幻の五大美術館と明治の実業家たち
著者:中野明
判型:新書
出版:祥伝社
初版:2015年3月10日


________________________________

→ 「美の五色」とは ~特徴と主催者について
→ 「美の五色」 サイトポリシー
→ 「美の五色」ジャンル別ページ 索引 Portal


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大阪・南蛮文化館が11/30まで... | トップ | 大阪市立美術館で中国書画を1... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

名作レビュー」カテゴリの最新記事