奈良から京都に都が移されるに伴い、仏教を取り巻く環境も大きく変わります。密教が新たに中国からもたらされたことにより、奈良仏教と異なる「宗派」の概念が芽生え、信者の階層やニーズに応じた信仰が発展していきます。平安時代初期は、平安京内に東寺・西寺以外に寺の建立が禁じられたこともあり、寺は山に建立される時代でした。
平安時代の仏教を理解するには、とても有名な空海とやや地味な最澄、二人の偉人の理解が欠かせません。こうした二人のイメージは後世が作り出したものです。二人の遺した業績は日本仏教界にとどまらず、社会全体に大きな影響を与えることになります。宗派を理解するうえで欠かせない二人の個性の違いについて探ってみたいと思います。
桓武天皇が仏教を大きく変えた
784年、桓武(かんむ)天皇は長岡京に遷都します。称徳(しょうとく)天皇に取り入り絶大な権勢をふるった僧・道鏡(どうきょう)のように、平城京で肥大化した南都仏教寺院の影響力を嫌ったためと考えられています。そのため桓武天皇は平城京からの寺院の移転を一切認めませんでした。平城京遷都時に有力寺院がそろって飛鳥から移転したのとは大きく異なります。
桓武天皇は新しい仏教の教えを求めていました。天皇側近の僧となっていた最澄(さいちょう)を唐に派遣し、中国の最新の仏教を学ばせます。最澄は805(延暦24)年に帰国し、天台宗を開きます。
【比叡山延暦寺公式サイトの画像】 伝教大師・最澄
最澄の活動は既得権を守ろうとする奈良仏教とことごとく対立しますが、新しい仏教を求める嵯峨(さが)天皇の支持も受け、認められていきます。畿内では奈良・東大寺にしかなかった国家による僧侶認定機関・戒壇(かいだん)を、比叡山に設けることにも成功します。
戒壇の設置もあって平安時代に数多くの若者が集まり、総合大学のようになっていました。こうして鎌倉仏教の開祖たちを世に送り出すことになります。
最澄が唐に渡った遣唐使一行に無名の若者も名を連ねていました。もう一人のスーパースター・空海(くうかい)です。遣唐使への乗船は当時、国家が実績を認めた人物以外はほぼ不可能でした。無名だった空海がなぜ乗船できたかはよくわかっていません。
【高野山金剛峰寺公式サイトの画像】 弘法大師・空海
空海は当初20年の留学の約束でしたが、わずか2年の滞在で帰国します。この約束を守らなかった理由に、中国の最新の仏教である密教(みっきょう)を早く日本で布教したかったからという説もありますが。よくわかっていません。
都に戻る許しを得るため博多と大宰府に滞在したのち、809(大同4)年に高雄山寺(現・神護寺)に入ります。この帰京には最澄の尽力があったと考えられています。
平安密教の原点、神護寺
最澄は自分がもたらした天台宗の密教(台密、たいみつ)より、空海が学んだ真言宗の密教(東密、とうみつ)の方が優れていることに気づき、先輩ながらも密教に関しては空海から学ぼうとします。両者のもたらした密教の完成度の違いが、現代まで続く両派の歴史を大きく左右することになります。
残念ながら最澄と空海の関係は長くは続きませんでした。二人は入滅後、天皇から僧侶に贈られる最高の敬称である大師(だいし)を賜わります。空海は弘法(こうぼう)大師、最澄は伝教(でんきょう)大師です。弘法大師の方が、圧倒的に知名度が高いことをお感じになられると思います。
平安京における仏教は、二人の個性の差から異なる展開をしていくことになります。
【Wikipediaへのリンク】 最澄
【Wikipediaへのリンク】 空海