日本の仏教宗派のお話、後半戦では平安時代半ば以降に日本で信仰が始まった宗派を取り上げたいと思います。いわゆる鎌倉新仏教と呼ばれる宗派で、仏教が信者の階級や信仰目的に応じてよりわかりやすく布教されていく時代です。
前半戦に取り上げたより歴史のある宗派に負けず劣らず、各派はとても豊かな個性を発揮しています。そんな個性を見ていると、観る者を感動させる文化財がそこに伝わっている理由が少しずつわかるようになってきます。
浄土信仰は、法然が浄土宗を開く前から盛んに行われていました。法然以前の浄土信仰に重要な役割を果たした二人の僧から探ってみたいと思います。
地獄と極楽を有名にした源信
浄土(じょうど)とは、本来は仏が住む清らかな土地という意味です。平安時代に浄土信仰が隆盛するに従い、現代と同じように「西方極楽浄土」を主に指すようになります。
浄土信仰とは、死後に阿弥陀如来によって西方に導かれ、理想的な世界である極楽浄土に行けるよう、念仏(ねんぶつ)を唱えて祈る仏教の信仰の一つです。「浄土教」はその教えを指します。
教えとしては奈良時代より前に日本に伝わっていたと考えられています。平安時代の初期には延暦寺の円仁が、中国から最新の念仏の教えを持ち帰り、天台宗の一つとして教えるようになります。
平安時代半ばの延暦寺の恵心僧都・源信(えしんそうず・げんしん)が、985(寛和元)年に日本の浄土教のバイブルともいえる「往生要集(おうじょうようしゅう)」を著します。源信は日本浄土教の祖と言われ、源信の教えと往生要集は法然・親鸞や中世文化に多大な影響を与えることになります。
源信は死後の世界として極楽と地獄をわかりやすく説明し、極楽に行くには念仏の行が必要と説きます。この極楽と地獄の世界観は下級貴族や庶民にも理解しやすく、仏教の大衆化に大きく貢献します。また様々な文学や絵巻・仏画にも表現されるようになり、中世文化の潮流の一つとなっていきます。
厳しい修行を伴う観想(かんそう)念仏を浄土信仰の基本としますが、難行せずとも念仏を唱えるだけで極楽に行けるとする称名(しょうみょう)念仏も信仰の一つとして紹介しました。この称名念仏を重視したのが浄土宗を開いた法然です。
源信の生きた時代は、貴族社会から庶民まで末法(まっぽう)思想が広がっていました。末法とは、仏による正しい教えが行われない暗黒の世の中を指し、1052(永承7)年から末法の時代に入るとして人々の不安感を高めていました。
浄土教は末法への不安感を解消するにはピッタリの教えでした。上流貴族はきちんとした教えを求め、観想念仏に傾倒します。時代は藤原摂関政治の絶頂期でもあり、宇治の平等院に代表される浄土世界を表現した数々の寺や仏像が造られました。浄土教は、現代にかけがえのない文化財を残すことにつながったのです。
【Wikipediaへのリンク】 浄土教
【Wikipediaへのリンク】 源信
大衆に仏教への扉を開いた空也
源信より少し前、念仏によって仏教を庶民に伝え、鎌倉新仏教隆盛の礎を作った僧侶がもう一人いました。空也(くうや)上人です。
【公式サイトの画像】 六波羅蜜寺蔵「空也上人立像」
平安時代になっても日本の仏教は、国家鎮護や一握りの上流貴族階級のためだけの存在でした。寺は国家が運営し、僧侶と言えば国家公務員でした。下級貴族や庶民には仏教は全く縁遠い存在でしたが、そうした状況を危惧する僧侶が出始めます。
聖(ひじり)と呼ばれ、市中や諸国を行脚しながら民衆に布教・社会事業を行った僧です。多くは国家による正式な手続きを経ずに自ら僧と称した私度僧(しどそう)でした。そんな聖の代表格が空也です。
藤原氏による摂関政治が始まろうとしていた938(天慶元)年ごろ、京都で念仏の布教をはじめ、大きな評判を呼ぶようになります。空也が活動の拠点としていた六波羅蜜寺に残る肖像彫刻の傑作「空也上人立像」は、口から小さい阿弥陀像が飛び出しています。念仏を視覚的に表現したものと考えられています。
【Wikipediaへのリンク】 空也
浄土教の宗派は4つあり
源信や空也は、宗派のように持続的に教えを広める教団を作ることはしませんでした。浄土教を新しい宗派として最初に広めたのは、融通念仏宗を開いた良忍(りょうにん)で、浄土宗を開いた法然(ほうねん)、時宗を開いた一遍(いっぺん)と続きます。
浄土教系宗派にはもう一つ、法然の弟子だった親鸞を開祖とする浄土真宗があります、詳しくは次回に探ってみたいと思います。
浄土教系(浄土真宗以外)の宗派
宗旨 | 宗派 | 本山 | 所在地 | 住職名 |
融通念仏宗 | 大念仏寺 | 大阪市平野区 | 法主(ほっす) | |
浄土宗 | (通称)鎮西派 | 知恩院 | 京都市東山区 | 門主(もんす) |
西山禅林寺派 | 永観堂 | 京都市左京区 | 法主(ほっす) | |
西山深草派 | 誓願寺 | 京都市中京区 | 法主(ほっす) | |
西山浄土宗 | 光明寺 | 京都府長岡京市 | 法主(ほっす) | |
時宗 | 遊行寺 | 神奈川県藤沢市 | 法主(ほっす) |
法然は鎌倉新仏教の突破口を開いた
浄土宗は、1175(承安5)年に法然が比叡山を下り、現在の総本山知恩院(ちおんいん)のある地・吉水(よしみず)に草庵を開いた年を宗派として開宗した年に定めています。
美作国(岡山県)出身の法然は、12歳で比叡山に入り、様々な教学を学ぶ中で源信の念仏の教えに傾倒していきます。中でも注目したのは、難行せずとも念仏を唱えるだけで極楽に行ける称名念仏でした。吉水草庵では称名念仏の教えに専念し、比叡山からも親鸞らが法然の活動に合流するようになります。
1181(養和元)年、前年に焼失した東大寺復興の大勧進職の推挙を辞退しています。重源は法然の推挙で大勧進職に就きました。1186(文治2)年には、大原勝林院で天台宗や南都仏教と論争し、一躍その名をとどろかせます。有名な「大原問答」です。
延暦寺にとって法然は、宗教上のライバルとなっていきます。1207(建永2)年、後鳥羽上皇の怒りを買うスキャンダルに巻き込まれたこともあり、念仏が禁止されます。法然は讃岐へ、親鸞は越後へ配流となった「建永の法難」です。しかし五摂家の九条家が法然に帰依していたこともあり、配流は短期間で赦免され、吉水に戻って余生を過ごします。
法然は、天台・真言の2強が仕切っていた京都の仏教界に新規参入するアントロプレナーでした。布教のターゲットとアプローチ手法をよく研究していたと言えます。法然の活動が、その後に続く鎌倉新仏教のアントロプレナーたちに大きな勇気を与えたことは間違いありません。
法然の入滅後も1227(嘉禄3)年に再び念仏が禁止となる「嘉禄の法難」に見舞われ、教団は以降分派を繰り返します。室町時代になると、鎮西(ちんぜい)派と西山(せいざん)派にほぼ集約され、江戸時代に徳川幕府の庇護を受けた鎮西派が、浄土宗の多数派として現在に至ります。鎮西派は正式な宗派名称ではありませんが、西山派と区別しやすいよう使われます。
知恩院の城のような石垣
浄土宗は江戸時代になるまでは有力宗派ではなく、総本山知恩院の境内もごく小さいものでした。徳川幕府が京都の有事の際の軍事的な拠点として想定したこともあり、北隣の天台宗の青蓮院の敷地を大幅に削って、現在の知恩院の境内としました。
徳川家が浄土宗を重視したのは、発祥の地・岡崎にある菩提寺・大樹寺が浄土宗だったことも一因です。江戸の増上寺は寛永寺と共に将軍の墓所となり、絶大な権勢をふるうことになりました。
浄土宗の寺の本尊は阿弥陀如来です。念仏は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えます。伽藍は金堂と講堂ではなく、阿弥陀堂と開祖を祀る御影堂(みえいどう)が中心になります。
布教のために開祖の生涯を絵巻にした「祖師絵伝」を重視するのも浄土教系宗派の特徴です。知恩院の国宝・法然上人絵伝はその代表例です。
浄土教系4宗派の中で、浄土真宗に次いで寺と信者数が多い宗派です。浄土宗(鎮西派)の著名寺院(山内塔頭除く)は全国に数多くあります。
総本山
- 知恩院(正式名称:知恩教院大谷寺(ちおんきょういんおおたにでら))
大本山
- 東京の増上寺、京都の金戒光明寺・百萬遍知恩寺・清浄華院、久留米の善導寺、鎌倉の光明寺、長野の善光寺大本願
他の有力寺院
- 京都の清凉寺・得浄明院・化野念仏寺・阿弥陀寺(上京区)・古知谷阿弥陀寺・安楽寺・直指庵・地蔵寺・釘抜地蔵・大文字寺・世継地蔵・大雲院・檀王法林寺
- 八幡の正法寺、大阪の一心寺・法善寺、貝塚の孝恩寺、斑鳩の吉田寺、御所の九品寺、吉野の如意輪寺、敦賀の西福寺
- 東京の回向院・九品仏浄真寺・祐天寺、甲府の甲斐善光寺、名古屋の建中寺、岡崎の大樹寺
【Wikipediaへのリンク】 浄土宗
【Wikipediaへのリンク】 法然
【Wikipediaへのリンク】 知恩院
天台宗に近い「西山派」
浄土宗の西山派は、法然の高弟・証空(しょうくう)が源流です。天台宗を取り入れており、やや保守的な教えであることが特徴です。現在は宗派としては3つに分かれています。
西山禅林寺派の有力寺院
- 総本山:京都の永観堂(正式名称:禅林寺(ぜんりんじ))
- その他:京都の瑞泉寺・法性寺
西山深草派の有力寺院
- 総本山:京都の誓願寺
西山浄土宗の有力寺院
- 総本山:長岡京の粟生光明寺
- その他:京都の長講堂
【Wikipediaへのリンク】 浄土宗西山禅林寺派
【Wikipediaへのリンク】 浄土宗西山深草派
【Wikipediaへのリンク】 西山浄土宗
大念仏狂言を始めた「融通念仏宗」
大念仏寺の万部おねり
融通念仏宗(ゆうづうねんぶつしゅう)は、浄土教系宗派の中でも最も早く開かれました。法然の浄土宗開宗より半世紀ほどさかのぼる1117(永久5)年、天台宗の良忍(りょうにん)が大原・来迎院で修行中に阿弥陀如来のお告げを受けて開宗したとされています。大念仏宗とも呼ばれます。
宗派として組織化されていたわけではなく、良忍の入滅後は細々と法灯が保たれている程度でした。法然の浄土宗のように多くの信者を集めることはありませんでした。
鎌倉時代後期の1300(正安2)年、融通念仏宗の中興の祖・円覚上人(えんがくしょうにん)が布教のために大念仏狂言を始めます。現在も京都の壬生寺・清凉寺・千本ゑんま堂で行われており、京都の著名な風物詩の一つです。
その後も再び時勢は衰えますが、元禄時代に寺勢を取り戻し、現在に至ります。総本山の大阪・大念仏寺は、25菩薩が来迎する5月の「万部おねり」がよく知られています。
【Wikipediaへのリンク】 融通念仏宗
踊り念仏と言えば「時宗」
時宗(じしゅう)は、浄土系宗派では最も後発で鎌倉時代後期に成立しました。浄土教の教えでは常識だった阿弥陀仏への信仰は問わず、ただ念仏だけを唱えれば往生できると説きます。
開祖・一遍上人は(いっぺんしょうにん)は、鎌倉新仏教の開祖では唯一、比叡山で学んでいません。生涯は全国の遊行(ゆぎょう)に捧げます。遊行とは、僧が各地を巡って布教・修行を行うことで、古くは行基・空也がよく知られています。
鉦や太鼓で踊りながら念仏を唱える「踊り(おどり)念仏」も遊行の際に行われ、時宗の布教の特徴になりました。蒙古襲来など社会不安が高まっていた時代で、幕末の「ええじゃないか踊り」のように庶民を熱狂させたと考えられています。
京都でも踊り念仏は流行し、信者を獲得します。室町時代に最先端文化をリードした猿楽の観阿弥・世阿弥や足利将軍の同朋衆の多くが、時宗信者だったことが知られています。
しかし一遍をはじめ、時宗は伝統的に教団としての組織化には熱心ではありませんでした。そのため江戸時代までは、集団に過ぎないという意味で「時衆」と表記していました。
総本山の藤沢・遊行寺(ゆぎょうじ、正式名称:清浄光寺(しょうじょうこうじ))は、一遍の死から30年ほどたってから弟子によって開かれたものです。著名寺院に、京都の安養寺・長楽寺、益田の萬福寺があります。
【Wikipediaへのリンク】 時宗