禅宗と言えば「座禅」というように、禅宗は自己と向き合うことで悟りを開く仏教です。臨済(りんざい)・曹洞(そうとう)・黄檗(おうばく)の3宗にわかれています。鎌倉時仏教の中では、主に武家に支持されました。
臨済宗は、中世から江戸時代にかけて日本文化の形成に絶大な貢献をしています。襖絵や水墨画などの美術展が行われると、必ずと言っていいほど臨済宗寺院の所有作品が含まれます。禅が支持され、文化が洗練された秘密を探ってみたいと思います。
「栄西」は当初、禅に関心がなかった
日本で臨済宗の禅が隆盛する扉を開けたのが明菴栄西です。禅宗の僧侶名は中国風に漢字4文字が多く見られますが、「栄西」のように2文字だけを取り出して呼ぶこともあります。栄西が開いた建仁寺では「みんなんようさい」と読みますが、一般的には「みんあんえいさい」です。
禅は、奈良時代以前に中国から伝わっており、最澄も延暦寺で教えてはいましたが、ほとんどふるいませんでした。栄西が“あらためて”伝えてから日本では臨済禅が興隆するようになりました。
しかし栄西が伝えたのは臨済禅の一派にすぎません。そのため臨済宗の宗派で栄西を開祖としているのは建仁寺だけであり、日本の臨済宗全体の開祖ととらえることはできません。
栄西は1141(永治元)年、岡山県の神職の家に生まれます。比叡山や各地を遊学しますが、天台宗をより学ぶために27歳で南宋へ渡ります。そこで禅と出会います。いったん帰国しますが禅への関心がますます強まったことから、46歳でインドまで行くべく再び南宋へ渡ります。インド行きは許可されず、南宋で臨済宗を学びます。
博多・聖福寺
1191(建久2)年に帰国し、九州で複数の小規模な禅道場を設けた後、1195(建久6)年に日本初の本格的禅道場・聖福寺(しょうふくじ)を博多に開きます。
延暦寺を中心に既存仏教から早速攻撃されますが、栄西は禅と他宗は相反するものではないと考えていました。延暦寺からの攻撃回避と朝廷からの布教許可取得を目的に、天台や密教の教えと禅を並行して学ぶべきと説いた「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」を執筆します。
京都での布教よりも鎌倉を優先し、まず1200(正治2)年、北条政子により寿福寺(じゅふくじ)を開きます。そして1202(建仁2)年、鎌倉幕府2代将軍・源頼家により京都に建仁寺(けんにんじ)を開きます。元号が寺名になっているように、幕府・朝廷の厚い庇護を受けた寺です。興禅護国論で述べたように、建仁寺は創建当初は禅・天台・真言の三宗兼学でした。
栄西は1215(建保3)年に入滅しますが、臨済宗は延暦寺との摩擦を避けながら、京都・鎌倉の上流武家階級に支持を広げていきます。
【Wikipediaへのリンク】 明菴栄西
【Wikipediaへのリンク】 臨済宗
禅宗は、仏に祈るのではなく自己と向き合う
禅宗は仏教の中でも信仰に対する考え方がとても個性的です。通常の仏教は経典や仏様をあがめて祈ることにより、現世利益を得られ、往生できると説きます。しかし禅宗は、祈りや経典のことばではなく、座禅という修行体験を通じて自己と向き合い、悟りを開くことで、自らや周囲を救済できると説きます。祈るのではなく悟りを開くことが何より大切なのです。
東福寺・禅堂
臨済宗と曹洞宗の違いは、悟りの開き方にあります。臨済宗は座禅と共に、師が雲水(うんすい、禅宗の修行僧)に悟りの境地への到達を促進するために与える、公案(こうあん)と呼ばれる問題とそれに対する回答を重視します。論理的な思考では理解不能な、いわゆる禅問答です。どのような回答を導き出せるかで、師は雲水の悟りの程度を判断します。師匠から雲水に悟りの境地を伝えることをとても重視するのです。
よく知られる公案に「片手で拍手をするとどんな音がするか?」というものがあります。まさにアニメの一休さんの珍問答に通ずるものがあります。回答が師に認められるまで何年もかかる公案もあります。
こうした座禅と公案を組み合わせて行う臨済宗の禅の修行の仕方を看話禅(かんなぜん)、もしくは公案禅(こうあんぜん)と言います。一方、曹洞宗の禅の修行の仕方は黙照禅(もくしょうぜん)と呼ばれます。曹洞宗に公案はなく、専ら座禅に徹することで悟りを開きます。黄檗宗の悟りの開き方は、臨済宗と同じです。
【Wikipediaへのリンク】 禅
達磨(だるま)
縁起物として知られるだるまは、5c末の中国の禅宗の開祖とされるインド人僧侶の「達磨」が座禅している姿を表したものです。達磨が実在の人物かは定かではありません。
日本の臨済宗寺院では、イメージキャラクターのようにユーモアのある表現で描かれた達磨の絵をよく見ます。禅宗の世界観を表す神話のような水墨画にもよく登場します。
【Wikipediaへのリンク】 達磨(僧侶)
【Wikipediaへのリンク】 だるま(置物)
白隠慧鶴(はくいんえかく)
【公式サイトの画像】 MIHO MUSEUM蔵 白隠慧鶴筆「達磨図」
達磨の絵でよく知られる白隠は、日本の臨済宗の中興の祖としてもあがめられています。江戸時代の半ば1686(貞享2)年に沼津で生まれ、駿河を中心に諸国を遊学しました。
臨済宗寺院は安土桃山時代から江戸時代初期に茶の湯文化を通じて大いに栄えましたが、一方で修行をおろそかにしているとの内部批判の声があがっていました。曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を憂いた白隠は、臨済宗の修行の仕方である看話禅を完成させます。現在すべての臨済宗派が白隠の看話禅を実践しています。
【Wikipediaへのリンク】 白隠慧鶴
臨済宗が和の文化を洗練した
京都の臨済宗寺院は主に室町時代に発展します。室町幕府の庇護の下、知識人や上流階級が集まり、様々な文化が花開くようになります。
今に遺る美しい庭園や襖絵は、そうした上流階級の集まるサロンとして造られていきました。現代の和室の原型である書院造は、そうしたサロンのために主に禅宗寺院で発達した建築様式です。師弟関係を重視する臨済宗は、師が弟子に贈った絵画や書もたくさん遺されています。
一方臨済宗は、南都・天台・真言宗寺院ほど仏像が目立たない場合が少なくありません。仏に祈ることよりも悟りを開くことを重視する考えが影響しているのでしょうか。この仏像が目立たない傾向は他の鎌倉新仏教でも見られます。仏以上に開祖をあがめて祈ることを重視するためかもしれません。
臨済宗に縁の深い室町時代の文化を探ってみたいと思います。
頂相(ちんそう)
禅宗の僧侶の肖像画(彫刻)のことです。師が自分の法灯を継がせる弟子に、後継の証明として自賛(じさん、絵画の作者が自ら絵画に書いたコメント)を記した上で渡していました。また高僧の法要の際に、現代の遺影写真のようにかかげていました。
【公式サイトの画像】 建長寺蔵・鎌倉国宝館寄託 国宝「蘭渓道隆像」
師の深い精神性を表現しようとするため、表情はその人の性格がうかがえるほど緻密に描かれることが一般的です。大寺院の開山の頂相を中心に、多くが国宝・重文に指定されています。
【Wikipediaへのリンク】 頂相
墨蹟(ぼくせき)
本来は筆者が特定されている真筆の文章を指しますが、現在は禅宗の僧による真筆の文章を指すのが一般的です。真筆の文章の中でも天皇が書いたものは宸翰(しんかん)と呼ばれます。
法話・扁額・命名・餞別・遺言・手紙・許可状など、文章の内容は多岐にわたります。中世の禅宗寺院では中国語が日常的に使われていたこともあり、ほとんどが漢文で書かれています。
【e国宝公式サイトの画像】 東京国立博物館蔵 国宝「尺牘(板渡しの墨蹟)」
頂相のように墨蹟も、筆跡から筆者の深い精神性がうかがえます。茶会の掛軸としても珍重されました。墨蹟も多くが国宝・重文に指定されています。
【Wikipediaへのリンク】 禅林墨跡
五山文学(ござんぶんがく)
鎌倉時代末期から室町時代にかけて、鎌倉・京都で政治的に重視された五山寺院を中心に隆盛した漢文学です。詩文・日記・論説など幅広く書かれていました。義堂周信(ぎどうしゅうしん)、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)らが五山文学を代表する臨済宗の学問僧です。
【Wikipediaへのリンク】 五山文学
水墨画(すいぼくが)
墨だけで線や面とその濃淡も表現した中国風の絵画で、鎌倉時代に禅と共に中国からもたらされました。部分的に着色されていても墨による表現がメインであれば水墨画に含めます。肖像・公案・禅の伝説をモチーフとしたものから始まり室町時代後期には、禅とは無関係な場合も含む山水画へと発展していきます。
【公式サイトの画像】 藤田美術館 国宝「柴門新月図」
詩画軸(しがじく)と呼ばれる、掛軸の下部に水墨画、上部にモチーフと関連した詩文を書く作品も、室町時代に禅僧の間で流行しました。「柴門新月図」はその最古の作品です。
相国寺の如拙(じょせつ)・周文(しゅうぶん)、東福寺の明兆(みんちょう)らが、水墨画の傑作を多く描いた画僧として知られています。
【Wikipediaへのリンク】 水墨画
禅宗庭園
足利将軍家が建立した禅宗寺院を中心に禅の精神性を表現した庭園です。初期には石組と植生・水の流れを組み合わせて表現した大規模庭園が多く、夢窓疎石が作庭した京都の西芳寺・天竜寺の庭園が代表例です。
西芳寺
室町時代後期になると、禅宗寺院の書院が上流階級のサロンに使われるようになります。水の流れがなく、比較的コンパクトな枯山水庭園が書院に面して造られるようになります。京都の大徳寺大仙院・龍安寺の庭園が代表例です。
庭園は、禅宗寺院が遺した文化の代表例です。京都の観光スポットとして世界中の人々を惹きつけています。
お茶をのむ
栄西は喫茶の習慣をもたらしたとも言われていますが、奈良時代にはすでに中国から伝わっていました。最澄も茶の種子を持ち帰っていますが、永らく廃れていました。栄西は茶の詳しい効用・製法・種子をあらためて持ち借り、その情報を得た明恵が高山寺で始めた茶葉の栽培が、後に宇治に広まっていきました。
禅僧や武士が愛用し、室町時代には茶の銘柄をあてる博打のような闘茶(とうちゃ)が上流の武士階級で流行しました。闘茶が戦国時代に廃れた後、村田珠光(むらたじゅこう)が主人と客との密接な交流を重視する「わび茶」を提唱し、千利休によって茶の湯として完成されます。
【Wikipediaへのリンク】 喫茶の歴史(日本)
臨済宗の主な寺院
臨済宗の各宗派の開祖はすべて異なります。日本の仏教宗派の中では特異です。各派の本山寺院の開山は、栄西につながる師弟関係がありません。また栄西以外にも様々なルートで臨済宗の流派が中国から日本に入ってきたこともあります。よって臨済宗全体を統括するような開祖や本山の概念はありません。
日本の臨済宗は、まずは鎌倉幕府の主導の下、京都と鎌倉で大寺院が建立されていきます。
- 新しい宗派を庇護することで、京都の公家や既存仏教勢力をけん制できる
- 自ら悟りを開く臨済宗の教えは、戦に向き合い厳しい判断を迫られる武士に受容された
武家政権としては、こうした背景から臨済宗を庇護することが合理的だったと考えられます。
鎌倉に続く室町幕府も、引き続き臨済宗との親密な関係を保ちます。地方武士にはもう一つの禅宗・曹洞宗が浸透していきます。
臨済・黄檗宗の宗派
宗旨 | 宗派 | 本山 | 所在地 | 住職名 |
臨済宗 | 建仁寺派 | 建仁寺 | 京都市東山区 | 管長(かんちょう) |
東福寺派 | 東福寺 | 京都市東山区 | ||
建長寺派 | 建長寺 | 鎌倉市 | ||
円覚寺派 | 円覚寺 | 鎌倉市 | ||
南禅寺派 | 南禅寺 | 京都市左京区 | ||
國泰寺派 | 國泰寺 | 富山県高岡市 | ||
大徳寺派 | 大徳寺 | 京都市北区 | ||
向嶽寺派 | 向嶽寺 | 山梨県甲州市 | ||
妙心寺派 | 妙心寺 | 京都市右京区 | ||
天龍寺派 | 天龍寺 | 京都市右京区 | ||
永源寺派 | 永源寺 | 滋賀県東近江市 | ||
方広寺派 | 方広寺 | 浜松市北区 | ||
相国寺派 | 相国寺 | 京都市上京区 | ||
佛通寺派 | 佛通寺 | 広島県三原市 | ||
興聖寺派 | 興聖寺 | 京都市上京区 | ||
黄檗宗 | 萬福寺 | 宇治市 | 堂頭(どうちょう) |
臨済宗の著名寺院(山内塔頭除く)は全国に数多くあります。妙心寺派は臨済宗全体の寺院数の約半数を占める最大宗派です。
建仁寺派
- 京都の六道珍皇寺・高台寺・法観寺(八坂の塔)・妙光寺
東福寺派
- 綾部の安国寺、益田の医光寺、山口の常栄寺(雪舟庭)、博多の承天寺
建長寺派
- 鎌倉の寿福寺・浄妙寺・明月院、立川の普済寺
円覚寺派
- 鎌倉の瑞泉寺・東慶寺
南禅寺派
- 京都の圓光寺・金福寺・正伝寺
- 多治見の永保寺、萩の大照院
大徳寺派
- 大和郡山の慈光院、大津の満月寺(浮御堂)、奈良の芳徳寺、堺の南宗寺
- 東京の祥雲寺・東海寺、箱根の早雲寺、博多の崇福寺
妙心寺派
- <境外塔頭>京都の龍安寺
- 京都の円通寺・法輪寺(だるま寺)、滋賀の石馬寺、奈良の圓照寺
- 松島の瑞巌寺、東京の龍雲寺、山梨の恵林寺、高山の安国寺、岐阜の崇福寺、岡崎の一畑山薬師寺、尾張一宮の妙興寺、福井の越前大仏
- 福山の安国寺、出雲の一畑寺、高知の雪蹊寺、博多の聖福寺、大宰府の戒壇院
天龍寺派
- 京都の西芳寺・厭離庵・源光寺・等持院・臨川寺、亀岡の金剛寺(応挙寺)
相国寺派
- <山外塔頭>京都の鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)・真如寺
【Wikipediaへのリンク】 建仁寺
【Wikipediaへのリンク】 東福寺
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江戸時代に一世風靡した「黄檗宗」
黄檗宗(おうばくしゅう)は、江戸時代初期に長崎の華僑たちによって中国の福建省から招かれた高僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)が伝えた明代の中国の臨済宗の一派です。日本の臨済宗は南宋時代の中国の臨済宗をベースにしており、黄檗宗は中国において日本とは異なる進化を遂げた臨済宗です。江戸時代は臨済宗の中の一宗派で、明治になって黄檗宗として独立しました。
江戸時代の初め、長崎にはすでにたくさんの華僑が住んでおり、福建省(台湾の対岸)出身者が多数を占めていました。1654(承応3)年、63歳で長崎にやってきた隠元は、中国で有数の高僧として著名であったことから、入寺した興福寺には教えを乞うために僧たちであふれかえったと言います。
隠元は当初3年間の約束で来日していましたが、隠元の高名に接した多くの関係者から引き留められます。謁見した4代将軍・家綱から寺領を賜ったこともあり、日本にとどまることを決意します。この寺領が現在の黄檗宗大本山・萬福寺(まんぷくじ)です。故郷の自身の寺と同じ名前を付けました。
その後も後水尾天皇をはじめ、多くの皇族や武家・商人が帰依し、江戸時代初期の日本仏教に大きなインパクトを与えました。黄檗宗の修行僧が実践していた集団生活による修業は、当時宗勢が衰退していた日本の臨済宗にも大きな刺激になったのです。
隠元と弟子たちは、現在日本で定着している多くの文化を中国からもたらしたことでも知られています。インゲン豆・西瓜・蓮根・タケノコ等の食材、煎茶(茶葉に湯をそそいで飲む)の習慣、普茶料理をはじめ、美術・建築・篆刻・医術といった技術ももたらしました。仏教だけでなく、文化や技術でも日本社会に大きなインパクトを与えた、まさに偉人集団でした。隠元は中国には帰国せず、20年日本で過ごし入滅します。
開梆(かいぱん)
黄檗宗は、ルーツは臨済宗と同じですので、教えや修行の仕方に大差はありません。しかし伽藍の様子はずいぶん違います。明らかに中国風のデザインです。寺の本堂は臨済宗のように仏殿とは呼ばず、大雄宝殿(だいゆうほうでん)と呼びます。天王殿(てんのうでん)には中国では弥勒菩薩と考えられている太鼓腹の布袋(ほてい)がまつられています。
僧侶が食事をする斎堂(さいどう)には、巨大な開梆(かいぱん)が吊るされており、時報を知らせます。木魚の原型と言われています。読経は古い中国語で行うため、独特の響きがあります。
黄檗宗の著名寺院(山内塔頭除く)も全国に少なくありません。
- 京都の石峯寺・閑臥庵
- 仙台の大年寺、高崎の達磨寺
- 鳥取の興禅寺、萩の東光寺、長崎の崇福寺・福済寺・興福寺・聖福寺