お寺の格式や種類を表す名称はたくさんあります。名称を理解していると、そのお寺が時の権力者からどのような評価をされていたのか、わかるようになります。
格式の高さを維持している寺には、相応の経済基盤を伴った上で寄進者も多くなるため、上質な文化財が集まります。
寺、山、院の違いは? <寺の名称>
仏教寺院の名称には、固有名詞の後に山・院・寺が付き、それぞれ山号(さんごう)・院号(いんごう)・寺号(じごう)と言います。山号+寺号の組み合わせを正式名称とする寺が最も多くなっています。
最も多いのは寺号です。飛鳥時代の仏教伝来の頃は中国語で役所を意味していました。読み方「てら」「じ」の違いに傾向や意味は見出せません。
山号は、日本では鎌倉時代に禅宗が広まって以降に普及した名称です。禅宗寺院が用い始め、他宗派にも広がっていきました。山号がない寺もあります。地名ではなく仏教用語を付ける場合も多くあります。読み方は「さん、ざん」です。
中国は国土が広いために同じ寺号の寺が多く、区別するために所在地や所在する山の名称を付けたのが始まりです。日本では平安時代までは寺号とは別に山号を付ける習慣はありませんでした。
院号の「院」の由来には2通りあります。一つは塀で囲まれた建物を指す古代の言葉で、正倉院のように、寺の広い境内の中の特定の囲まれたエリアを指していました。もう一つは上皇や女院に付けられた名称で、そうした身分の高い皇族が入った門跡寺院に付けられ始めました。現代ではこうした由来にあてはまらないケースも多々見られます。
山号+寺号のような正式名称だと長くなるので、最も普及している号だけ、もしくはその号をさらに省略してで呼ぶのが一般的です。
- 高野山金剛峰寺 → 高野山
- 華頂山知恩教院大谷寺 → 知恩院
- 瑞龍山太平興国南禅禅寺 → 南禅寺
- 成田山新勝寺 → 成田山、成田不動
また特定の堂宇・仏像といった参拝対象が有名になり、その参拝対象名が通称名として普及している場合もあります。庶民信仰が根強い寺に多く見られます。京都では「通称寺」として、共同で参拝をPRしています。
- 紫雲山頂法寺 → 六角堂
- 光明山引接寺 → 千本ゑんま堂
- 金剛山金乗院平間寺 → 川崎大師
【Wikipediaへのリンク】 山号
本山、別院、末寺 <宗派のヒエラルキー>
妙心寺
本山(ほんざん)とは宗派の中で特に重要視される寺を指す用語です。宗派の中心となり、最重要視される寺は「総本山」「大本山」などと呼ばれますが、宗派によって名称は異なります。
別院(べついん)は、本山と遠距離の大都市の拠点寺院に付けられる名称です。別格(べっかく)本山とは、総・大本山に準ずる役割の寺、末寺(まつじ)とは本山の傘下に入る寺を指します。
本山の下に同じ宗派の末寺が連なるヒエラルキーは、江戸幕府による本末制度によって成立しました。それまでは他宗派の末寺が独立でもめたり、上納金獲得を目的として大規模寺院が強制的に末寺に組み入れようとするトラブルが多発していました。寺は特定の宗派に必ず属さねばならなくなり、住民の戸籍を管理する寺請制度が安定して運用されるようになりました。
現代では日蓮宗のように本末関係を完全に廃止している宗派もあります。また特定の宗派に属している(=江戸時代でいう末寺)場合でも、宗教法人としては独立している場合も多々あります。
【Wikipediaへのリンク】 本山
【Wikipediaへのリンク】 本末制度
塔頭
塔頭(たっちゅう)は、元は禅宗寺院で高僧の死後に建てられた墓とそれを守る小庵のことでした。徐々に高僧をまつるために支持者が建てた小規模寺院や高僧の隠居後の住居を指すようになりました。現代は禅宗以外の多宗派でも広く用いられています。
禅宗寺院の塔頭の多くは、安土桃山時代以降に有力大名や富裕な商人の帰依を受けていました。上流階級を迎えるためにしつらえた襖絵や茶室・庭園が、国宝や名勝となって今に伝わっているところも少なくありません。
通常は大寺院の境内に隣接しています。観光目的では通常非公開の塔頭が多いですが、近年では不定期ながらも特別公開を行う塔頭が増えています。
【Wikipediaへのリンク】 塔頭
里坊
里坊(さとぼう)とは、山の上に伽藍がある寺が普段の生活と業務に必要な街との往来に不便なため、山の麓に日常の拠点として設けた坊のことを言います。主に高僧が高齢を理由に設けたため、麓に設けた“塔頭”のような位置づけです。寺が政治権力者と実力であいまみえることがなくなった江戸時代に発達しました。
比叡山延暦寺が琵琶湖川の麓である大津市・坂本に設けたのが代表例です。延暦寺ではトップである天台座主の本坊も、江戸時代には麓の坂本にありました。
官寺、国分寺、定額寺 <国家による格付け>
官寺(かんじ)とは、国家が運営していた寺院のことで、平安時代以前に建立されています。奈良の東大寺・唐招提寺や京都の東寺が現存する代表例です。飛鳥・奈良時代に寺院名称が「○○大寺」である場合、官寺であることを意味します。
一方、国家ではなく有力貴族など民間が運営した寺院を私寺(しじ)と言います。藤原氏による奈良の興福寺が代表例です。
平城京では官寺・私寺とも盛んに建立されていましたが、平安京では東寺・西寺の2つの官寺以外の建立は認められず、室生寺など山岳部に私寺が建立されました。平安時代半ば以降は、寺を国家が運営する概念自体が消滅し、官寺の新設はなくなります。
国分寺(こくぶんじ)は、奈良時代に聖武天皇が国家鎮護のために各国に建立した官寺です。尼寺の国分尼寺(こくぶんにじ)と一緒に建立されました。奈良の東大寺・法華寺がそれぞれの総本山です。
平安時代には廃れ始め、宗派を変えたりして現在まで続く寺もありますがわずかです。大半は遺跡や地名に痕跡を残すのみとなっています。
奈良・平安時代には定額寺(じょうがくじ)という格付けもありました。一定の位置づけがされていたと考えられていますが、実態はよくわかっていません。
こうした寺の格付けのことを寺格(じかく)と言います。本山・末寺も宗派内における寺格です。
【Wikipediaへのリンク】 官寺
【Wikipediaへのリンク】 国分寺
【Wikipediaへのリンク】 定額寺
勅願寺、門跡 <天皇が関わる寺>
勅願寺(ちょくがんじ)とは、天皇・上皇の意向で国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された寺を指します。創建後時間が経ってから勅願寺になる場合もあります。鎌倉新仏教の場合、勅願寺になることはその宗派が公に認められたことを意味しました。畿内を中心に全国に数多くあります。
一方、平安京内で皇族・貴族の私的な信仰のために建立された寺を御願寺(ごがんじ)と言います。官寺が消滅した平安時代半ば以降にみられるようになります。藤原頼通による宇治の平等院が代表例です。
門跡(もんぜき)とは、皇族や公家が住職を務める寺院と、その住職を指します。息女が入る門跡は「尼門跡」と呼ばれます。
平安時代の904(延喜4)年、宇多天皇が仁和寺に入ったのが始まりとされています。以降、家督を継ぐ可能性のない皇族や公家の子息が若くして入寺することが一般的になり、門跡寺院も徐々に増えていきます。
門跡は天台宗と真言宗の寺院が中心で、ほとんどが京都にあります。門崎寺院の塀には3-5本の白い横方向の定規筋(じょうぎすじ)をひき、本数の多さで格式の高さを表します。現代では、門跡寺院ではない寺にも定規筋がひかれている場合があります。
【Wikipediaへのリンク】 勅願寺
【Wikipediaへのリンク】 門跡
安国寺
安国寺(あんこくじ)は、南北朝時代に足利尊氏・直義兄弟が、後醍醐天皇や戦没者の菩提を弔うため、利生塔(りしょうとう)各国に1か所ずつ建立した寺院のことです。室町幕府の衰退とともに安国寺も寺勢を失っていきますが、一部現存している寺もあります。
戦国時代に毛利氏の外交僧として活躍し、関ケ原の戦いで敗れ斬首された安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の名前は、安芸の安国寺の住職だったことに由来します。
【Wikipediaへのリンク】 安国寺、利生塔
臨済宗の五山十刹
五山制度(ござんせいど)は、中国の寺の格付け制度で、鎌倉時代に禅宗と共に日本に伝えられました。旧仏教に代わる仏教勢力として臨済宗を庇護していた鎌倉幕府が、政治的な意図で採用しました。幕府が任命した住職を格付けが上位の寺に順次昇進させることで、臨済宗寺院をコントロールしました。
鎌倉時代に五山に指定された寺の構成はよくわかっていません。建長寺や建仁寺は少なくとも含まれていたと考えられますが入れ替えも相当あったようです。現在のように京都・鎌倉で別々に格付けられてはいませんでした。
室町幕府も引き続き臨済宗を庇護し、五山制度を採用します。当初は入れ替えが多く安定しませんでしたが、2代将軍・義詮が京都・鎌倉で別々に格付けます。現代の構成と順位を定めたのは3代将軍・義満で、足利将軍家の菩提寺として新たに建立した相国寺を五山に入れるため、南禅寺を別格の「五山の上」に位置付けるという荒業を行使しました。
- 五山の上:南禅寺
- 京都五山:第一位から、天竜寺→相国寺→建仁寺→東福寺→万寿寺(現:東福寺塔頭)
- 鎌倉五山:第一位から、建長寺→円覚寺→寿福寺→浄智寺→ 浄妙寺
十刹(じっさつ)は、五山の次に位置づけられた寺格です。入れ替わりも激しく、京都・鎌倉だけでなく全国にありました。
【Wikipediaへのリンク】 五山
【Wikipediaへのリンク】 十刹
叢林と林下
幕府の庇護を受け五山制度に入る寺は叢林(そうりん)、庇護を受けず制度に入らない寺は林下(りんげ)、と呼ばれていました。
大徳寺は後醍醐天皇と、妙心寺は大内氏と、それぞれ足利幕府の敵対勢力と近かったため、五山制度から除外されていました。室町幕府が衰えるのに伴い、林下の中心的寺院になった大徳寺や妙心寺は多くの戦国大名の帰依を受け、全国に勢力を伸ばしていきます。一方叢林の寺は振るわなくなります。大徳寺は上流階級が茶の湯で交際するサロンにもなっていきます。
【Wikipediaへのリンク】 林下