玄界灘を望みながら、文禄の役の武将の陣地を確認できます
佐賀県唐津のやや西の海岸に、豊臣秀吉が築いた巨大な城がありました。名護屋(なごや)城です。
豊臣秀吉が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の前線基地として築かれました。その周囲には兵士や後方支援の商人など20万人もの人が滞在していたと考えられています。大坂や京都と並ぶ大都会が突如出現したようなものですが、わずか10年ほどで忽然と姿を消す運命にありました。
秀吉の人生の最大の過ちの一つであり、「長生きしすぎた」とささやかれる最大の要因の舞台は、大坂城に匹敵するほど広大です。何のためにここに城を築き、何のためにここに20万人もの人が集まったのか、歴史の光と影を如実に考えさせられるところです。
名護屋城跡は唐津市から車で30分ほど、玄界灘に突き出た半島から、20km先に浮かぶ壱岐島(いきのしま)を中心に海をパノラマに臨むことができます。半島全体が起伏のある丘陵地です。本丸と天守の跡は高台で、特に眺望が開けています。
現地に付くと、最初は巨大な丘陵地帯にしか見えませんが、足を進めると巨大な石垣が崩れた跡が目に飛び込んでくるようになります。この城はとても巨大で、とてもたくさんの人が、確かにここに行き交っていたことがわかるようになります。
崩れた石垣は、フォロ・ロマーノのよう
1590(天正18)年に小田原征伐により天下統一を成し遂げた秀吉は、朝鮮半島を支配していた李氏朝鮮王朝に服属と中国・明への遠征の協力を打診します。しかしそんな打診に李氏朝鮮側が応じるはずはありません。
秀吉は1592(文禄元)年に名護屋城を完成させ、1回目の出兵である文禄の役を始めます。当初は日本軍が破竹の勢いでしたが、明軍の参戦もあって戦闘は1年ほどで膠着状態になります。日明間で講話交渉が始まりますが、最前線の日本軍には強い厭戦ムードがありました。小西行長らを中心に、秀吉と明皇帝の双方に都合の良いよう手紙を書き換えて時間稼ぎをし、軍を帰国させようと画策していたほどです。
この画策も1596(文禄5)年に明から日本に来た“ホンモノ”の使者が来ると失敗に終わります。秀吉は自分の要求とは真逆の考えを伝えられると激怒し、翌1597(慶長2)年に2回目の出兵・慶弔の役を始めます。泥沼の戦いが続きますが、翌1598(慶長3)年に秀吉がこの世を去ると、現地の将兵にはその事実が知らされぬまま、撤退を開始します。
名護屋城の復元模型(名護屋城博物館)
このような大義名分なく凄惨な戦いだけが続いていた中、秀吉は名護屋城に二度滞在していました。陣頭指揮を執るとともに、茶会や能を頻繁に催していました。臨席していた大名のほとんどは、落ち着いて茶の湯や能を楽しめる気分ではなかったでしょう。
本丸跡から名護屋城全体を見渡すと、広大な敷地に武将たちの陣屋があり、待機する将兵たちで埋め尽くされていた様子がよくわかります。東西両軍で20万を超える兵力が集結した関ヶ原の戦いの直前のような、圧巻の光景だったと思われます。
しかしその場にいた将兵たちには、関ヶ原のような生死をかけた大一番に臨む気概はほとんどなかったと考えられます。現場の兵士には朝鮮や明に攻め込む意味がよくわからなかったと思われるためです。
関ヶ原の戦いの直後に城は取り壊され、唐津城として移築されます。城の生涯も壮大さの割にはあまりにはかないものでした。
本丸跡から見える壮大なパノラマからは、そんな歴史の光と影をうかがうことができます。日本の歴史を美化することなく冷静に見つめられる、“兵どもの夢の跡”です。
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。
秀吉の朝鮮出兵は日本の民衆も苦しめた
名護屋城跡(佐賀県観光公式サイト)
https://www.asobo-saga.jp/search/detail.html?id=29
※いつでも拝観・見学できます。
佐賀県立名護屋城博物館
http://saga-museum.jp/nagoya/
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