法隆寺は1,400年以上の歴史を持つ寺で、荒廃・戦乱・火災といった逆風に大きく遭遇することなく現在まで脈々と宗教活動を続けています。世界最古の木造建築を始め、圧倒的な質と量の文化財が今に伝えられています。
なぜこれほどたくさんの文化財がのこされてきたのでしょうか。単に歴史があるからだけでは説明が付きません。なぜなら文化財が失われる(手放される)大きな要因は世界共通で、放棄・困窮・災害・争乱の4つだからです。しっかり造っていても、こうした外的要因には対応できません。
法隆寺はこの4つを1,300年もの間、巧みに回避してきたのです。法隆寺の持続の歴史について、あらためて紐解いてみたいと思います。
南大門
法隆寺は飛鳥時代の初め607(推古天皇15)年、聖徳太子が自らの宮殿のあった地に、亡父・用明天皇の菩提を弔うために建立しました。日本の大規模な仏教寺院としては、587(用明天皇2)年に建立が発願された法興寺(現:飛鳥寺の前身)、593(推古天皇元)年に建立が始まった四天王寺、603(推古天皇11)年に建立された広隆寺、に次いで四番目に古い寺と考えられています。
明治時代に「670(天智天皇9)年に焼失」との日本書記の記述を根拠に現伽藍の再建説があげられ、長らく非再建説との論争が続いてきました。1939(昭和14)年の現伽藍より古い若草伽藍の発掘により、693(持統天皇7)年から711(和銅4)年頃にかけて現在の西院伽藍が再建されたものと認定されました。
奈良時代には国家の保護を受ける南都七大寺の一つだった可能性が指摘されています。また平城京と都の外港である難波津(現在の大阪市)を結ぶ街道沿いにも位置していたことから、往来は多く寺勢を保っていたことは間違いないでしょう。
しかし平安京に都が移ると、他の南都の大寺以上にその存在感をなくしていきます。興福寺のように有力な貴族の保護はなく、大和国を牛耳るような広大な荘園は持っていません。東大寺のように人々の信奉を集める大仏もありません。
何よりまして斑鳩(いかるが)という立地が中世日本の主要な交通路からはずれたことが、結果的にこれだけの文化財をのこした最大の要因でしょう。中山道が明治の鉄道開通後に使われなくなり、妻籠・馬籠宿が手つかずのままのこされたのと同様の環境です。
人々の往来が少なくなると生活の活動も活発でなくなり、おのずと火災の可能性も低くなります。全伽藍を焼失するような大火はなく、平安時代の大講堂・鐘楼、西室、室町時代の南大門といった局所的な焼失にとどまっています。防火・消火の努力を日頃から怠っていなかった結果と言えるでしょう。地震・暴風雨といった自然災害による損失も、平安時代の西円堂などにすぎません。法隆寺には幸運の女神がほほ笑み続けていたのです。
大きな戦乱にも巻き込まれずに済みました。戦国時代に城をめぐる攻防戦が大和国でも幾度となく行われましたが、斑鳩はいずれの城とも距離がありました。城から近かった東大寺や朝護孫子寺は焼失の憂き目にあいます。寺も戦乱に巻き込まれないよう中立を貫いたのでしょう。法隆寺は無傷でした。
豊臣秀頼や桂昌院(5代将軍・綱吉の母)による伽藍の修造も行われており、江戸時代においても伝統と格式が認められていたと考えられます。こうした地道な修繕は、建物の寿命の延長には言うまでもなくきわめて影響します。
東院伽藍
江戸時代までは細々と寺勢を保ってきた法隆寺に、過去最大級と言える危機が訪れます。廃仏毀釈による”困窮”です。明治新政府によって寺領は没収され、収入がなくなります。これは全国の寺にあてはまり、奈良でも内山永久寺などの大寺が廃寺になっています。
この困窮の危機を救ったのは寺が持つ”文化財”でした。1878(明治11)年に時の管長の決断で約300件の宝物を皇室に献納し、一万円を下賜されます。皇室献納で危機をしのいだのは、伊藤若冲の最高傑作「動植彩絵」を献納した京都・相国寺と同様です。
この際の献納物には、聖徳太子の肖像画として現在もっともよく知られる「唐本御影(とうほんみえい)」もありました。旧一万円札に使われたのはこの肖像で、現在も皇室が所有する御物(ぎょぶつ)です。
他のほとんどの宝物は戦後に東京国立博物館の所蔵となり、専用の施設である法隆寺宝物館で保管・展示されています。正倉院よりも一時代古いものが多く含まれ、正倉院展とは異なる古代の工芸技術の高さを学ぶことができます。
1884(明治17)年には、かの有名なフェノロサと岡倉天心による夢殿の救世観音の開扉が行われます。永年の秘仏が一級の美仏であることを”発見した”という話です。しかしこの話はなぜか、HPや出版物など法隆寺の公式見解には一切出てきません。
フェノロサより前に明治新政府により開扉調査が行われていた、救世観音は秘仏ではなかった、など様々な異論もあるようです。日本美術の救世主として神格化されているフェノロサのイメージに合った伝説なのかもしれません。
1934(昭和9)年からは昭和の大修理が始まり、近代的な調査と修造が行われます。大修理が終了したのは、半世紀後の1985(昭和60)年です。
寺だけでなく世界的にも痛恨の金堂壁画の焼損は、この大修理中に起こりました。1949(昭和24)年1月26日、解体修理と戦時中の空襲疎開のため、金堂は上層部と内部の仏像がない状態でした。出火原因はよくわかっていません。内部に燃えやすいものがなかったためか、壁画や柱が完全に焼失したわけではありません。壁画は損傷が甚大ですが、劣化しないよう処置を施され現在も法隆寺の収蔵庫で保管されています。
焼け残った壁画は非公開ですが、焼損前に京都の美術印刷会社・便利堂が原寸大でモノクロ撮影した写真が焼損前の姿を伝えています。
焼け残った柱に補強を加え、火災を免れた部材を組み直して修理を完了したのが現在の金堂です。安田靫彦・前田青邨ら昭和を代表する画家たちによる壁画の模写が壁にはめ込まれています。
1月26日は文化庁と消防庁により「文化財保護デー」として制定されました。法隆寺でも法要と防火訓練が毎年行われています。9月1日の「防災の日」とともに、記憶にとどめてほしい日です。
伊丹空港へ向かう飛行機が伽藍からよく見える
法隆寺・薬師寺の修理・再建を手掛けた昭和の名宮大工・西岡常一が語る法隆寺の奥深さ
法隆寺
【公式サイト】http://www.horyuji.or.jp/
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