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5月初旬の富津岬。潮干狩り場は既に大勢の人で賑わっていましたが、少し離れた海辺は、梅雨の到来が近いことを思わせる、
曇天下の湿った空気に包まれた光景が広がっていました。
もう半世紀も前の話になりますが、小中高校生の頃、授業の話とは別に、授業の合間に教師自らの体験談を語ることがあり、
それらの話が、常にと言うわけではありませんが、ふと何かしらの時に脳裏に蘇ってきたりします。
その頃の教師は多かれ少なかれ先の大戦の経験者たちでした。
今思い返しても、当時は日教組全盛の時代で殆どの教師は組合員だったのではと思いますが、政治がらみの反戦じみた話を熱く語る人は一人もいなかった気がします。
あくまでも、なにかの拍子に昔を思い出してしみじみと。。と言う感じ。それだけ、生々しい体験だったからでしょうか。
さすがに小学生の頃は、男女教師ともそれらを口にすることは殆どありませんでした(まぁ、小学生に話してもどれだけ理解できたかと考えていたのかも知れませんが・笑)。
ただ一度だけ、小学校卒業時に担任の若い男性教師が教室で語ったことがいまだに思い出されます。今まで全くこういった話をされたことが無かったので驚いた記憶があります。
その先生は学芸大を卒業してまだ何年も経ていない若い教師でした。
卒業間近の教室で、教壇に立つ先生が生徒たちに語った話。
先生は確か1944年か45年、終戦前後のお生まれだったと記憶しています。
多摩川と接する東京都下、ご実家は曹洞宗だったと思います、お寺さんでした。
先生が生まれた直後だったかおなかの中にいたころだったか、記憶は定かではありませんが、ご住職であったお父上が招集されてフィリッピンの戦地へ(東京都下なので恐らく第一師団)。
もう既に制空権も制海権も失っていたころで、無事に上陸できる望みは非常に薄い時期でした。
しかし辛くも無事フィリッピン(どの島かはおっしゃっていなかったような。たぶんレイテ島では・・・)に上陸。それらは軍事郵便で家族のもとへもたらされた由。
レイテ島では、米軍との圧倒的火力差と補給途絶により壊滅的打撃を受けた模様です。その後残存兵力はセブ島に移動しそこで終戦。
上陸後の音信は無く、どこでどのような状況で亡くなられたのかは不明だとおっしゃっていました。
余談になりますが、祖母(母方)の年の離れた妹さんのご亭主(生まれたばかりの女の子が一人居ました)や、同じく母方の実家の隣家のあんにゃさんもフィリッピンへ出征したそうですが、
何れもフィリッピン到着前に乗船していた輸送船が撃沈され、のちに行方不明戦死の公報が届いたそうです。
卒業間際、このお話を聞いた前後だと思いますが、クラスの男女5~6人で先生の実家へ遊びに行ったことがあります。
ご実家(お寺)には先生の母上とお兄様がいらっしゃり、とても穏やかで優しく歓待されたことを思い出します。
そして帰り際、駅まで送ってくれた先生と、クラスメート全員で撮った記念写真が残っていますが、皆若くて穏やかな笑顔・・・
先生やみんな、どうしているだろうか・・・などと懐かしく思い出しました。
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カメラ Canon EOS R10
レンズ RF-S18-45mm F4.5-6.3 IS STM
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ホワイトバランス オート
撮影日 2024.05.06
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