(1967/リチャード・ブルックス監督・製作・脚本/ロバート・ブレイク=ペリー・スミス、スコット・ウィルソン=ディック・ヒコック、ジョン・フォーサイス/133分)
リチャード・ブルックスの「冷血」をレンタルで観る。何年ぶりだろう?淀川さんがコメントされてるのをぼんやり覚えているので「日曜洋画劇場」の鑑賞だったでしょう。てなると、そうとうカットされていたことになるな。例の殺害シーンをクライマックスとして回想で持ってきたのは成功だった。
[ 3月 27日(→twitter で 以下同じ)]
モノクロカメラはコンラッド・ホールだった。あれは強烈だ。「カポーティ」では描かれなかった、事件の経緯や、二人の犯罪者の事件後の行状が描かれている。カポーティは出てこない。観客は結末を知っていて観るわけだけど、それでも怖いのは殺人があんな動機で発生するのを見せられるからだ。
トルーマン・カポーティが自らノンフィクション・ノベルと名付けた「冷血」をリチャード・ブルックスが映画化した作品。文芸作品の多いブルックスは脚本家から入った人らしく監督と脚本を同時にやる人ですが、この映画ではプロデュースも担ったようです。つまりそれだけ惚れこんでいたということでしょうか。
「カポーティ」で彼の作家生命を終わらせたに等しいと描かれた因縁の大ベストセラー。暗い不気味な雰囲気も、起伏の乏しいカンザスの田舎町の風景も同じでしたな。
ストーリーの構成は小説と同じだと思われます。
第一部は事件が発生する直前のエピソード。
恐らくは刑務所で知り合ったであろうペリーとディックが、カンザスの田舎町ホルカムの大農場クラター家に押し入り現金強盗を働こうと準備をしているシークエンスで、ソレと平行するように、彼らとは縁もゆかりもない被害者家族の平和な一日の様子が途切れ途切れに挿入されていきます。マッチカットを使いながら、サスペンスの序章らしさを演出しておりました。
ペリーが先に出所していて、その後ディックが仮出所し、その間にディックはある囚人からカンザス州ホルカムのクラター家で働いていた時の話を聞く。囚人の話ではクラター家では諸々の支払いが毎週1万ドルあったという。それ程の現金が動いているのなら農場主の家には金庫があるに違いない、いや絶対にある。だから二人で頂けば一人5千ドル。一家四人を皆殺しにすれば証人はいないし、なにしろ俺達とクラターを結びつけるモノは何もないんだから、まさに完全犯罪だ。
これがディックの計画だった。
ペリーとディックが落ち合った所からホルカムまでは600キロ。武器はディックの鳥撃ち用のショットガンとナイフ。途中で、被害者達を縛る紐やガムテープなどを買う。
ディックは人殺しをしたことは無かったが、この計画を完全犯罪にするためには一家四人を亡き者にしなければいけなかった。そこでかつでシカゴで殺人を犯し、朝鮮戦争でも大勢を殺したことのあるペリーを誘ったのだ。
深夜。二人を乗せた車がクラター家の前まで来る。時は11月14日から15日に変わる頃。
道中で計画の内容を聞いて半信半疑だったペリーは、『止めよう。今ならまだ止めることが出来る』というが、ディックは『俺が一人では出来ないと思っているのか』とリアシートのショットガンを掴む。
外はカンザスらしい強い風の吹く夜だった・・・。
ココまでで上映時間30分。
次のシーンは「カポーティ」にもほぼ同じように描かれていた、クラター家の次女ナンシーの遺体を友人の少女が発見するところでした。つまり、事件本体の描写はありません。ノベルにする為にカポーティがどうしても理解したかった殺人者達の心の闇、なかなか掴めなかった事件当夜の詳細。「カポーティ」でも小説執筆の終盤で掴んだであろうと描かれたそのシーンは後半に回想として描かれるのでした。
第二部は捜査状況の様子と、ペリーとディックのその後の行状を追っています。
そして、20分位すると、例の囚人がディックの犯行に違いないと証言をするのです。序盤でディックがペリーに書き送った手紙に記された計画を聞いた段階で、観客には事件が発生すればその囚人が直ぐに怪しむだろうし、懸賞金でも付けば警察にも情報はいくなとピンと来るのですが、まさにこの事件はそのように流れていったわけです。
映画の後半(第三部)に入ると、容疑者は二人に絞られ、警察はそれぞれの父親に会い、犯人達の生い立ちや家族構成なども分かってくる。
80分近くでついに二人はラスベガスで逮捕され、90分には白状する。
そして二人は現場検証の為にクラター家に再び向かうことになり、そのパトカーの中でペリーが事件当夜のことを捜査官に“ありのままに”語り始めるのです。
終盤の30分(第四部)は死刑が確定した後の二人の様子が描かれます。5年後の死刑執行のその夜までの死刑囚の反省も懺悔もない淡々とした、しかし重苦しい日々が。
この映画には当然カポーティは出てきませんが、主任捜査官と話をするジャーナリストらしい人物が出てきます。小説には無いというその人物はモノローグも語ったりして、主人公のいないこの話の狂言回しになっていました。
まだ二人の容疑者が捜査関係者の頭に入っていない時期に、そのジャーナリストがカンザス州のある病院が発表した殺人犯に関するレポートを語るシーンがあります。捜査官は内容には興味ないそぶりをしましたが、小説の作者としてはこの事件を理解する為のまさにキモともいうべき部分であったのだろうと思います。
<クラター事件の半年前、“動機の認められぬ殺人”にかかわった4人の殺人犯をカンザスの病院が調べた。すると、彼らには次のような共通点があった。
脈絡のない殺人を犯した点。自分の肉体や性的能力に劣等感がある点。虐待を経験した点。片親がいなかったり、他人の手で育てられた点。
彼らは空想と現実の区別が付けられず、犠牲者を知りもしなかった。罪悪感はなく、犯行に関する感情は皆無。彼らは警察や精神科医にこう語っている。
“殺人を犯す前に殺人への衝動を感じた”と。>
1967年のアカデミー賞で、監督賞、脚色賞、撮影賞(コンラッド・L・ホール)、作曲賞(クインシー・ジョーンズ)にノミネートされたが無冠だったそうです。
リチャード・ブルックスの「冷血」をレンタルで観る。何年ぶりだろう?淀川さんがコメントされてるのをぼんやり覚えているので「日曜洋画劇場」の鑑賞だったでしょう。てなると、そうとうカットされていたことになるな。例の殺害シーンをクライマックスとして回想で持ってきたのは成功だった。
[ 3月 27日(→twitter で 以下同じ)]
モノクロカメラはコンラッド・ホールだった。あれは強烈だ。「カポーティ」では描かれなかった、事件の経緯や、二人の犯罪者の事件後の行状が描かれている。カポーティは出てこない。観客は結末を知っていて観るわけだけど、それでも怖いのは殺人があんな動機で発生するのを見せられるからだ。
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トルーマン・カポーティが自らノンフィクション・ノベルと名付けた「冷血」をリチャード・ブルックスが映画化した作品。文芸作品の多いブルックスは脚本家から入った人らしく監督と脚本を同時にやる人ですが、この映画ではプロデュースも担ったようです。つまりそれだけ惚れこんでいたということでしょうか。
「カポーティ」で彼の作家生命を終わらせたに等しいと描かれた因縁の大ベストセラー。暗い不気味な雰囲気も、起伏の乏しいカンザスの田舎町の風景も同じでしたな。
ストーリーの構成は小説と同じだと思われます。
第一部は事件が発生する直前のエピソード。
恐らくは刑務所で知り合ったであろうペリーとディックが、カンザスの田舎町ホルカムの大農場クラター家に押し入り現金強盗を働こうと準備をしているシークエンスで、ソレと平行するように、彼らとは縁もゆかりもない被害者家族の平和な一日の様子が途切れ途切れに挿入されていきます。マッチカットを使いながら、サスペンスの序章らしさを演出しておりました。
ペリーが先に出所していて、その後ディックが仮出所し、その間にディックはある囚人からカンザス州ホルカムのクラター家で働いていた時の話を聞く。囚人の話ではクラター家では諸々の支払いが毎週1万ドルあったという。それ程の現金が動いているのなら農場主の家には金庫があるに違いない、いや絶対にある。だから二人で頂けば一人5千ドル。一家四人を皆殺しにすれば証人はいないし、なにしろ俺達とクラターを結びつけるモノは何もないんだから、まさに完全犯罪だ。
これがディックの計画だった。
ペリーとディックが落ち合った所からホルカムまでは600キロ。武器はディックの鳥撃ち用のショットガンとナイフ。途中で、被害者達を縛る紐やガムテープなどを買う。
ディックは人殺しをしたことは無かったが、この計画を完全犯罪にするためには一家四人を亡き者にしなければいけなかった。そこでかつでシカゴで殺人を犯し、朝鮮戦争でも大勢を殺したことのあるペリーを誘ったのだ。
深夜。二人を乗せた車がクラター家の前まで来る。時は11月14日から15日に変わる頃。
道中で計画の内容を聞いて半信半疑だったペリーは、『止めよう。今ならまだ止めることが出来る』というが、ディックは『俺が一人では出来ないと思っているのか』とリアシートのショットガンを掴む。
外はカンザスらしい強い風の吹く夜だった・・・。
ココまでで上映時間30分。
次のシーンは「カポーティ」にもほぼ同じように描かれていた、クラター家の次女ナンシーの遺体を友人の少女が発見するところでした。つまり、事件本体の描写はありません。ノベルにする為にカポーティがどうしても理解したかった殺人者達の心の闇、なかなか掴めなかった事件当夜の詳細。「カポーティ」でも小説執筆の終盤で掴んだであろうと描かれたそのシーンは後半に回想として描かれるのでした。
第二部は捜査状況の様子と、ペリーとディックのその後の行状を追っています。
そして、20分位すると、例の囚人がディックの犯行に違いないと証言をするのです。序盤でディックがペリーに書き送った手紙に記された計画を聞いた段階で、観客には事件が発生すればその囚人が直ぐに怪しむだろうし、懸賞金でも付けば警察にも情報はいくなとピンと来るのですが、まさにこの事件はそのように流れていったわけです。
映画の後半(第三部)に入ると、容疑者は二人に絞られ、警察はそれぞれの父親に会い、犯人達の生い立ちや家族構成なども分かってくる。
80分近くでついに二人はラスベガスで逮捕され、90分には白状する。
そして二人は現場検証の為にクラター家に再び向かうことになり、そのパトカーの中でペリーが事件当夜のことを捜査官に“ありのままに”語り始めるのです。
終盤の30分(第四部)は死刑が確定した後の二人の様子が描かれます。5年後の死刑執行のその夜までの死刑囚の反省も懺悔もない淡々とした、しかし重苦しい日々が。
*
この映画には当然カポーティは出てきませんが、主任捜査官と話をするジャーナリストらしい人物が出てきます。小説には無いというその人物はモノローグも語ったりして、主人公のいないこの話の狂言回しになっていました。
まだ二人の容疑者が捜査関係者の頭に入っていない時期に、そのジャーナリストがカンザス州のある病院が発表した殺人犯に関するレポートを語るシーンがあります。捜査官は内容には興味ないそぶりをしましたが、小説の作者としてはこの事件を理解する為のまさにキモともいうべき部分であったのだろうと思います。
<クラター事件の半年前、“動機の認められぬ殺人”にかかわった4人の殺人犯をカンザスの病院が調べた。すると、彼らには次のような共通点があった。
脈絡のない殺人を犯した点。自分の肉体や性的能力に劣等感がある点。虐待を経験した点。片親がいなかったり、他人の手で育てられた点。
彼らは空想と現実の区別が付けられず、犠牲者を知りもしなかった。罪悪感はなく、犯行に関する感情は皆無。彼らは警察や精神科医にこう語っている。
“殺人を犯す前に殺人への衝動を感じた”と。>
1967年のアカデミー賞で、監督賞、脚色賞、撮影賞(コンラッド・L・ホール)、作曲賞(クインシー・ジョーンズ)にノミネートされたが無冠だったそうです。
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