草鞋を履いた関東軍 6
サブロー日記 18.10.24
高知の室戸、26番札所金剛頂寺を後に、また高知で親兄弟の見送りをうけ、一路、元の茨城県の内原満蒙開拓義勇軍訓練所へと向かった。これで高知とも、親兄弟とも今生の別れになるかも?、、、、、心の中には一抹の寂しさが込み上がって来る。
翌夕刻、なつかしの兵舎に落ち着くことが出来た。翌日より教練や農事の猛訓練が始まった。私たちの留守中、全国より集められた。食糧増産推進隊のおっさん達が訓練を受けていた。(終戦までに75.000人の人々がここで訓練をうけたと言う)。内原の訓練所は全国の食糧増産にも大いに貢献しているのである。
10月。今度は、埼玉県鴻巣農事試験場、所外訓練の命令が出た。此処の訓練は数日で終わり、続いて北海道所外訓練が決まった。隊員一同より、ワーと歓声が上がった。三郎も北海道と言う処へ一度行ってみたいと思っていた。叔母が旭川に居り、主人は旭川駅の助役をしている。毎年北海道の鮭や数の子、お菓子を送ってくれる。あの叔母の居る北海道に行けるとは思いもよらぬ事であった。北海道までは長旅である。訓練所には乗車訓練用として列車が一両設置されていて、乗車マナーが教え込まれる。大勢の一般客の中、整然と乗車下車をするよう訓練されるのである。いよいよ常磐線内原駅より乗車、しばらくの間は整然としているが、指定車両であることもあって、すぐにわいわいがやがや、思い思いに席を立つものも多くなる。夜になると、これまた大変、座ったままでは眠れない。あるものは座席の下に新聞紙を敷いて潜り込み横になる。体の細い者は座席の上の網棚に上がって寝る者もいた。
長旅もやがて青函連絡船の桟橋までたどり着く。そこで驚いた。囚人が縄で数珠繋ぎされ、官憲に連れて行かれていた。おそらく網走の牢に入れられるのであろう。生きている大人の人間が手錠され、それも大勢。国民挙げてのこの非常時に何たることぞ。三郎は初めてみる囚人、それをくくって引っぱっている人間。三郎は世の中と言うものの裏の裏を覗いた感で、この光景を強く脳裏に刻み込まされた。
初めて乗った青函連絡船、初秋の空はどこまでも青く海は穏やかであった。やがて函館。昔ふうに言えば蝦夷地である。北海道の開拓は満州開拓にとって、義勇軍教育の上ではよい教科書であった。分厚い「屯田兵」の教科書が配られた。北海道開拓には主に日露戦争に従軍した退役軍人が屯田兵として募集され、片手に鍬、片手に銃を持ち斧鉞(ふえつ)入らざる原野を開拓し今日の北海道の発展をもたらしたのである。吾が伯父、岡田清馬も旅順の城を落とし、退役後一時北海道開拓を夢見た人であったが、初志貫徹は成し得なかった。
多くの先輩が血と汗で築いたこの大地、まだ見ぬ満州が想像される。荒野を走る車窓の風景は三郎にとって驚きの連続であった。
「広いこたあー広いねゃ!」 あちこちで感嘆の声があがる。やがて叔母のいる旭川を通り過ぎ剣淵駅で下車。ここから四kくらい北へ行軍、白樺林の白い幹がなんとも絵に描いたように美しい、また落葉松の林、木々にからまった山葡萄の葉っぱ、早や秋の色に変わりつつある。このなんとも言えない風情を踏みしめながら馬車の轍をよけながら進む、案内の先導者が、あそこに有る、あの家にアイヌの人が住んでいる。との説明。一同顔を見合せる。別に変わった家でもないが、アイヌと言う先入観、偏見があり、何か異様な物でも見るように、そして一抹の恐ろしさが頭をよぎる。いまにも大きなマサカリを持って出て来ないかと、しかし住人は出てこなかった。 残念ながら?この訓練期間中アイヌの人に会うことは無かった。
宿泊所は剣淵国民学校であった。空き教室に小隊ごと分宿した。
炊事は、校舎の前の道路を隔てた大きな倉庫のような建物の中で作られ、炊事作業は旭川の女学生の勤労奉仕でまかなわれた、何とその中に叔母の義理の娘さんも居た。世の中何と狭い事よ、この人とは挨拶程度で、親しく話すことも無かったが、大きくて美しい人であったと記憶している。
作業訓練は各農家に配られ稲刈り、馬鈴薯堀が主な作業であった。
私も隊友、安藤君と或る農家に行き、稲刈りを手伝った。稲刈りは自分も家で随分手伝わされていたのでお手の物であった。ただ刈った稲を束ねる仕方が違っていた。池川のやり方よりずっと効率的であったがそのコツを覚えるのに時間がかかった。その農家では、私が借りて履いていた長靴に穴を開けた、との言う理由で私は首になった。
次の農家は馬鈴薯を収穫する仕事であった。畑の隅に大きなクルミの木があり、これを休み時間にとって食べた。初めて見るクルミ、初めての味、割るのに時間がかかり腹の張るようなものではなかった。又林檎の生っている木を初めて見た。が、まだ青く残念ながら食べることは出来なかった。
数日後旭川の叔母が大きな袋にいっぱいリンゴを持って会いに来て下さった。リンゴは隊員全員に一個ずつ配られた。食糧事情の悪い中、有難いことで皆大喜びして頂いた。
この宿舎、学校に幽霊が出る。との地元の人の話から大さわぎとなった。出る場所は、長い廊下の先。別棟だが渡り廊下で行ける便所である。出た出たの話が隊内で高じ、夜は一人では用便に行けなくなった。団体で行っても早く済んだ者が、「出た!―」と走れば、後の者は済まないものを仕舞い込んで走る始末。此の事が中隊幹部の知るところとなり、厳しいお説教、そして度胸試しの仕儀と相成った。
暗い中、独りずつ便所まで往復するのである。この世に幽霊なんか居るはずが無いと、皆口では言うものの、やっぱり怖い。三郎の番になった。怖いが行かねばならぬ、行かねばならない。その顔色は今でも想像がつく、恐る恐る廊下の中ほどまで来た時、隣の教室から、にゅうーと人間が現れた。「中平一緒に行ちゃろう」吉岡であった。吉岡は窪川出身で、中隊では正義感の強いやんちゃ者であった。この心情は有難い、断るのも悪い、幹部に見られたら、大変であるが折角の好意を無にもせられん、この場合良い方に解釈しなければならない。三郎には何か心にかかるものはあったが一緒に行ってもらった。
こんなことがあって早くも秋深くなり、雪降る中で馬鈴薯の収穫をする事も有った。やはり北海道は寒い。しかし満州はもっと寒いであろうと想像しながらここの訓練は無事終った。帰りには旭川の叔母の家に寄り、色々と馳走になりストーブで濡れた靴下も乾かしてもらい再び隊に復帰、車中の人となり津軽海峡へと急いだ。
サブロー日記 18.10.24
高知の室戸、26番札所金剛頂寺を後に、また高知で親兄弟の見送りをうけ、一路、元の茨城県の内原満蒙開拓義勇軍訓練所へと向かった。これで高知とも、親兄弟とも今生の別れになるかも?、、、、、心の中には一抹の寂しさが込み上がって来る。
翌夕刻、なつかしの兵舎に落ち着くことが出来た。翌日より教練や農事の猛訓練が始まった。私たちの留守中、全国より集められた。食糧増産推進隊のおっさん達が訓練を受けていた。(終戦までに75.000人の人々がここで訓練をうけたと言う)。内原の訓練所は全国の食糧増産にも大いに貢献しているのである。
10月。今度は、埼玉県鴻巣農事試験場、所外訓練の命令が出た。此処の訓練は数日で終わり、続いて北海道所外訓練が決まった。隊員一同より、ワーと歓声が上がった。三郎も北海道と言う処へ一度行ってみたいと思っていた。叔母が旭川に居り、主人は旭川駅の助役をしている。毎年北海道の鮭や数の子、お菓子を送ってくれる。あの叔母の居る北海道に行けるとは思いもよらぬ事であった。北海道までは長旅である。訓練所には乗車訓練用として列車が一両設置されていて、乗車マナーが教え込まれる。大勢の一般客の中、整然と乗車下車をするよう訓練されるのである。いよいよ常磐線内原駅より乗車、しばらくの間は整然としているが、指定車両であることもあって、すぐにわいわいがやがや、思い思いに席を立つものも多くなる。夜になると、これまた大変、座ったままでは眠れない。あるものは座席の下に新聞紙を敷いて潜り込み横になる。体の細い者は座席の上の網棚に上がって寝る者もいた。
長旅もやがて青函連絡船の桟橋までたどり着く。そこで驚いた。囚人が縄で数珠繋ぎされ、官憲に連れて行かれていた。おそらく網走の牢に入れられるのであろう。生きている大人の人間が手錠され、それも大勢。国民挙げてのこの非常時に何たることぞ。三郎は初めてみる囚人、それをくくって引っぱっている人間。三郎は世の中と言うものの裏の裏を覗いた感で、この光景を強く脳裏に刻み込まされた。
初めて乗った青函連絡船、初秋の空はどこまでも青く海は穏やかであった。やがて函館。昔ふうに言えば蝦夷地である。北海道の開拓は満州開拓にとって、義勇軍教育の上ではよい教科書であった。分厚い「屯田兵」の教科書が配られた。北海道開拓には主に日露戦争に従軍した退役軍人が屯田兵として募集され、片手に鍬、片手に銃を持ち斧鉞(ふえつ)入らざる原野を開拓し今日の北海道の発展をもたらしたのである。吾が伯父、岡田清馬も旅順の城を落とし、退役後一時北海道開拓を夢見た人であったが、初志貫徹は成し得なかった。
多くの先輩が血と汗で築いたこの大地、まだ見ぬ満州が想像される。荒野を走る車窓の風景は三郎にとって驚きの連続であった。
「広いこたあー広いねゃ!」 あちこちで感嘆の声があがる。やがて叔母のいる旭川を通り過ぎ剣淵駅で下車。ここから四kくらい北へ行軍、白樺林の白い幹がなんとも絵に描いたように美しい、また落葉松の林、木々にからまった山葡萄の葉っぱ、早や秋の色に変わりつつある。このなんとも言えない風情を踏みしめながら馬車の轍をよけながら進む、案内の先導者が、あそこに有る、あの家にアイヌの人が住んでいる。との説明。一同顔を見合せる。別に変わった家でもないが、アイヌと言う先入観、偏見があり、何か異様な物でも見るように、そして一抹の恐ろしさが頭をよぎる。いまにも大きなマサカリを持って出て来ないかと、しかし住人は出てこなかった。 残念ながら?この訓練期間中アイヌの人に会うことは無かった。
宿泊所は剣淵国民学校であった。空き教室に小隊ごと分宿した。
炊事は、校舎の前の道路を隔てた大きな倉庫のような建物の中で作られ、炊事作業は旭川の女学生の勤労奉仕でまかなわれた、何とその中に叔母の義理の娘さんも居た。世の中何と狭い事よ、この人とは挨拶程度で、親しく話すことも無かったが、大きくて美しい人であったと記憶している。
作業訓練は各農家に配られ稲刈り、馬鈴薯堀が主な作業であった。
私も隊友、安藤君と或る農家に行き、稲刈りを手伝った。稲刈りは自分も家で随分手伝わされていたのでお手の物であった。ただ刈った稲を束ねる仕方が違っていた。池川のやり方よりずっと効率的であったがそのコツを覚えるのに時間がかかった。その農家では、私が借りて履いていた長靴に穴を開けた、との言う理由で私は首になった。
次の農家は馬鈴薯を収穫する仕事であった。畑の隅に大きなクルミの木があり、これを休み時間にとって食べた。初めて見るクルミ、初めての味、割るのに時間がかかり腹の張るようなものではなかった。又林檎の生っている木を初めて見た。が、まだ青く残念ながら食べることは出来なかった。
数日後旭川の叔母が大きな袋にいっぱいリンゴを持って会いに来て下さった。リンゴは隊員全員に一個ずつ配られた。食糧事情の悪い中、有難いことで皆大喜びして頂いた。
この宿舎、学校に幽霊が出る。との地元の人の話から大さわぎとなった。出る場所は、長い廊下の先。別棟だが渡り廊下で行ける便所である。出た出たの話が隊内で高じ、夜は一人では用便に行けなくなった。団体で行っても早く済んだ者が、「出た!―」と走れば、後の者は済まないものを仕舞い込んで走る始末。此の事が中隊幹部の知るところとなり、厳しいお説教、そして度胸試しの仕儀と相成った。
暗い中、独りずつ便所まで往復するのである。この世に幽霊なんか居るはずが無いと、皆口では言うものの、やっぱり怖い。三郎の番になった。怖いが行かねばならぬ、行かねばならない。その顔色は今でも想像がつく、恐る恐る廊下の中ほどまで来た時、隣の教室から、にゅうーと人間が現れた。「中平一緒に行ちゃろう」吉岡であった。吉岡は窪川出身で、中隊では正義感の強いやんちゃ者であった。この心情は有難い、断るのも悪い、幹部に見られたら、大変であるが折角の好意を無にもせられん、この場合良い方に解釈しなければならない。三郎には何か心にかかるものはあったが一緒に行ってもらった。
こんなことがあって早くも秋深くなり、雪降る中で馬鈴薯の収穫をする事も有った。やはり北海道は寒い。しかし満州はもっと寒いであろうと想像しながらここの訓練は無事終った。帰りには旭川の叔母の家に寄り、色々と馳走になりストーブで濡れた靴下も乾かしてもらい再び隊に復帰、車中の人となり津軽海峡へと急いだ。