サブロー日記

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草鞋を履いた関東軍    14  サブロー日記

2008年03月08日 | Weblog
草鞋を履いた関東軍   14   サブロー日記   2008.2.19

 無事新京へのロストル購入旅行も終り、訓練所周辺の広野も新緑に包まれつつあった。すぐ近くの機械化農場には本部よりトラクター班が来て大豆の種を播き始めた。果てしない農場も数日間ですっかり立派な農場となる。これからの満州の農業はこの様にトラクターが主役となるのであろう。
 大陸の気候は三寒四温を繰り返しながら初夏を迎えた。北のソ連、そして現地満人の動向に不審なものを感じるようになって来た。訓練本部への道路に沿って蛸壺を掘り、又宿舎の周りにも塹壕を掘り万一に備える。愈々来るべきものが来たのか?、しかし現実には何事も起こらなかったが、夜の衛兵、不寝番も周囲の空気からひしひしと、怪しいなにものかを感じるようになって来た。衛兵の持つ三八式歩兵銃には実弾を込めるようになり、かってのマンマンデーの暢気なものではいかなく、本気になっての毎日の行動をしなければならなくなって来た。反面、いやいや北の国境には何十万の世界最強の関東軍がおる。何の心配があろうか、、。その頃有名な作家、小林秀雄が書いた「満州の印象」から私達義勇隊員の一節を拾ってみよう。「少年達の表情は奇妙なものであった。元気に見えるかと思えば、しょげているようにも見え、沈んでいる様にも見えるかと思うと、快活な表情が見えたりして、最初その表情を捕らえることが出来なかったが、間もなく僕は判然と理解した。そして一種言いようの無い同情の念を覚えた。少年の顔には何ら難解なものは無かったのだ。見る僕の心が気難しかったのに過ぎない。彼らの顔は明け放しの子供の顔なのだ。まさしく困難な境遇に置かれた時の子供の心そのものの顔なのだ。少年には、大人の様に困難に打ち克つ意思はない、その代わり困難を困難と感じない若々しいエネルギーがある。希望に生きる才能をもたぬ代わりに、絶望と言う様な観念的なものを作り出す才能も無い。その無邪気さを少年達の顔に判然読んだとき、僕は胸を突かれたのである。おそらく彼らの反抗も服従も無邪気なのだ。その点指導者達は少年を指導するどころか、むしろ少年達に引き摺られている。欠乏も又一つの訓練だ、そんな大人のロマンチズムを子供の無邪気さは決して理解しはしない。」とある。実際私達はそんな少年であったのだろうか、、。
 ここに義勇隊に関する小史、満州国終焉までを参考に掲げて置こう。
  昭和3.年6月.4日 張作霖 (馬賊出身、満州北東の支配者)関東軍の陰謀により爆死。
  4.6.関東軍満州国独立の策定にいる。
 6.7.1.  万宝山事件 日本警察官隊と中国官憲の率いる農民と衝突事件。
 6.9.18.  柳条溝に於いて鉄道爆破。満州事変、支那事変、第二次世界大戦当の端緒となる。
 7.3.1.  満州国建国の宣言。
 7.9.8.  満州移民の先覚者、加藤完治、東宮大佐、石原中佐は、国策として武装移民500名を桂木斯(チャムス)の弥栄村に送った。
 8.3.27.  満州国の国歌生る。
 9.3.1.   州国帝政実施。溥儀皇帝に就任。
 11.8.17  政府満州国に5年間に500万人の移民計画を樹立。
 12.7.7.  盧溝橋で日.中国軍衝突。
 14.5.2.  ノモンハンで日、ソ軍衝突。関東軍惨敗。死傷17.000人と公表
 14.9.   ドイツポーランドに侵入。第二次世界大戦に突入。
14.9.1.  ソ連ノモンハン停戦協定。
16.4.13.  日ソ中立条約調印。(ソ連はこの条約を破って20.8.対日宣戦を布
      告した)
16.12.8. 日本は英、米、蘭、に宣戦布告。
16.4.   茨城県内原に満蒙開拓義勇軍訓練所創立。所長。加藤完治。
17.2.25.  第一回義勇隊160名満州に渡る。
20.3.17.  硫黄島守備隊玉砕。
20.4.1.   米軍沖縄に上陸。
20.5.2.   ソ連軍ベルリンを占領7日ドイツ降伏す。
20.8.6.   広島に原爆投下。
20.8.9.  ソ連軍満州に侵入開始す。長崎に原爆投下
20.8.15.  終戦詔書放送さる。
20.8.19.  満州国皇帝退位式行われ、満州建国13年にして消滅、この間
多くの少年義勇隊員の夢破れ戦死する。
      つづく、、、、、