サブロー日記

随筆やエッセイを随時発信する

草鞋を履いた関東軍      17

2011年01月09日 | Weblog
草鞋(わらじ)を履いた関東軍      17       サブロー
2010 12  22

 野宿第一日目の夜が明けた。一枚の毛布に手足を暖かく包んで寝たのだが、初めての野宿とは冷たいもの、急ぎ焚き火をし皆で囲む、そして昨夜の残りものの飯盒を温め朝食とする。
やがて点呼がすむと出発。昨日たどり着いたこの岩盤地帯、まだまだ続く。岩盤の合間には幾筋もの小さなせせらぎが出来、きれいな音を立てながら流れている。又その付近には丈余の木々が深い茂みをつくっている。この長白山には今もトラや熊、それに多くの狼が棲むと言う。まだ平坦な道が続いて居る。8キロくらい進んだ頃であっただろう、わが行く手と逆方向に、我々の隊列を縫うように、日本の騎馬兵が三騎走り去って行った。あれは日本の騎馬斥候だ。みな一様に顔を見合わせる。だとすると、この先には、あの世界最強の関東軍が居るということである。私達は気を強くした。しばらく歩くと山手に差し掛かった。背にしている物がだんだんと重くなる。銃が弾が重い。三郎は此の日より中隊で飼っていた「霧島」と言う名の大きな牛を曳く事になった。昨日本部を出る時は山ほど食糧が積まれていたが、この食糧は昨夜のうちに、他の中隊に配分され、今日は軽い雑貨物が積まれているだけ。
昨日からの逃避行でリュックは重く三郎の肩へ食い込む。肩も体力ももう限界。よっしゃ‼ 牛に負うてもらおう!銃は身から絶対離してはならぬと強く教えられているのだが、もう我慢が出来ない、銃も防毒面もリュックも、何にもかも皆牛に背負って貰った。これこれ、これで楽になった。三郎は小学生の頃、我が家の山田でよく牛を使って田の代掻きなど手伝っていた。その覚えがあるので牛の扱いは慣れている。
 ところが行く手に5メートルほどの小川があり、そこに腐りかかった土橋が架かっている。その土橋を、わが「霧島」が渡ろうとしない、ムチで叩いても、鼻カンを両手で引っ張っても、どうしても動こうとしない。我が中隊はどんどんと先に進み、戦友の姿は見えなくなった。こんな時、人ごとにかまってはいられないのである。みな我が事が精一杯なのだ。三郎は一人で牛の先になり後になりして悪戦苦闘していると次ぎに通りかかった他の中隊の見知らぬ隊員二三人が手を貸してくれ、牛の尻を押してくれた、やっとの事でこの小さな橋を渡る事が出来た。やれ有難う。そしてやっとのこと我が中隊に追いついた。山が益々深くなって来た。此の道は軍が旧道を軍用に改良を加えたのであろう所々新道が加えられていた。暫く登って行くと、そこに何と日本軍のトラックが焼き捨てられていた、しかも重機関銃を載せたまま、おそらくトラックは故障、重機も使い物にならなくなったのであろう。やはり此の道を多くの軍が通過している事が分かった。われわれを置き去りにして軍だけが、お先に失礼と言うところだろうか。
 さらに登ると、これは驚いた。日本兵、関東軍の兵士が三四人ほど道端で休んでいる。どうしたのだろう?立派な軍装はしている。何といっても日本の軍隊は世界一の軍装を着けていると言う事である。襟章を見ると赤地に金筋一本、星は一つも付いて無い。皆同じである。とすると幹部候補生か、又なんか特殊な兵隊であろうと想像される。服装を見ると第一線で戦った様子ではない、しかし皆へとへとに疲れている。そしてその足元を見ると、これ又驚いた。草鞋(わらじ)を履いているではないか、子供の頃私はよく祖父の作った草履(ぞうり)を履いたものだが、草鞋(わらじ)は履いた事も、祖父が草鞋(わらじ)を作っているのを見た事も無い。よく見たのは山開きになると家の下の道を、石鎚さんへ登る白装束の信者が草鞋を履いているのを珍しく見たものだった。その草鞋(わらじ)を立派な軍装をした、関東軍の兵隊さんが履いているのである。草鞋(わらじ)にはちゃんと両側に二つづつ耳(乳(ち))が付いていて、そこに紐を通し後ろの紐とで足にしっかりと結んでいる。足元だけ見ると、まるで戦国武士の出たちである。本ものの草鞋(わらじ)である。世界一の軍装をしているはずの関東軍が草鞋を履くとは? 。ありゃあ?よくよく見ると、背負っている背嚢に予備の草鞋もぶら下げている。さらに立派な軍靴をもくくりつけているではないか、軍靴はあるのだが、草鞋を履いているのだ。又その腰には直径25cmほどの丸い物をつけている。小学校にあった、あの巻尺のような物である。聞くところによると、あれが戦車をやっつける爆弾だとの事、これを持って敵の戦車に飛び込むのだと言う。でも此の兵隊さん戦わずして我々より先に逃げているのだろうか、それとも後方への移動なのだろうか。私達は遠巻きにしてジロジロ見るばかり、兵隊さんに話しかける勇気も無かった。ただ想像で、こんなに疲れていては戦争にはなるまい・・・と思うだけであった。
 それにしてもあの有名な関東軍がわらじを履いているとは?国定忠治でもあるまいに、満州建国と言う大博打に負け、わらじを履いて、親分とも別れ別れとなり長白山へと草鞋を履いたのであろうか。わらじを履いて戦争は出来まいが、逃げるには、あの重い軍靴より幾倍も軽く歩きよいであろう、よく考えたものだ。しかし誰がこの草鞋を作ったのであろう? そして軍もこれを許しているのだろうか。私達義勇軍は夏ではあるが皆防寒靴を履くよう命じられていた。厚いゴム底で布製ではあるが軽くて丈夫であった。
 私達はこの兵隊さん達を後にして山中深く歩を進すめた。1キロほど山の中腹ぐらいまで登った時、東の方角より爆音が聞こえ、一機の飛行機が飛んで来た。私達は満州に来てから初めて見る飛行機である。皆大喜びで手を振る、帽子を振る。その飛行機は、私たち長蛇の如き一団の上空を大きく二三回旋回し北の空へと飛び去った。「おい"あの飛行機には日の丸が無かったねや!」「まっこと、そう言ゃあ日の丸は無かった。」皆顔を見合わせ黙り込んだ。何か不吉な予感、やがて頂点の尾根を越え夕暮れ近く、何処かの開拓団に着いた。五六棟の建物は有ったが家財道具はなく、猫の子一匹も居ない、もぬけの殻であった。私達はこの空き家に分散今宵の宿とした。さっそく夕餉の支度に200mほど下に流れているきれいな小川に、我先にと駆け下り、米を研ぐもの、馬鈴薯を洗うもの、南瓜を切るもの、枯れ木を集め火を焚く者、洗濯しつつ泳ぐもの、久しぶりに明るい声が谷いっぱいにこだましていた。それぞれに腹を満たした、今宵は主の居ない開拓民の空き家で寝ることが出来た。
 明けてそれぞれ自分の朝食を済ます。いいなあー、朝から腹いっぱい自分で勝手に食事が出来る。こんないい事初めてである。まだリュックの米は二三日分は有る。さあ、今日は何処まで行くのだろう。暫くすると、何処から来たのか、何と肩から幾筋もの金モールをぶら下げた日本軍将校が数人現れた。これはどうした事だ。家来(兵)は一人も連れてない。歩の無い将棋は負け将棋と言うが、歩兵の姿は一人も見えない。これでは戦争にはなるまいに?。どうもこの偉い人達は、我々の先を逃げた?あの国境を護っているはずの関東に違いない、この軍装からみると師団長や参謀、司令その他副官たちであはあるまいか。私達の隊長と何やら話している。暫くすると集合ラッパが響いた。皆宿舎の裏側に隠れるように集められ、銃に実弾の装填するよう命じられた。金モールの一人が前に出て「此の先方にて満軍(満軍とは満人を集め日本軍の戦力とし訓練していた)が反逆し、我が軍と戦闘状態に入ろうとしている。此処にも攻めて来そうな情況にある。」「諸君は日頃の訓練通り隊長の指揮に従い行動する事。戦闘になれば、処かまわず伏せなければならない、したがって用便は必ず一箇所に決めて行う事。」なるほどこの用便の事まで三郎達は習った事は無かった。これに感心しながら命令を待つ、愈々実戦か‼。しかし我ながら実戦の怖いという気持ちは起らなかった。まだ敵が見えないからなのか?大勢の友達が居るからなのか、訓練と変ったことはなかった。
待機すること一時間ほど、満軍の姿はついに現れなかった。全員集合、折敷して銃より弾を抜く、此の時三郎と相対し真ん前に居た戦友が、弾倉から五発の弾を抜かねばならないのに最後一発を抜かずに引き金を引き暴発させた。発射音は一同を仰天させた。その弾は三郎の頭を掠めた。幸い訓練の通り銃口を空に向けていたので三郎は命拾いすることが出来た。一発の暴発は大戦争のきっかけになると厳しく教えられていたのに、、、。
 午後になるとあの緊張した空気は何処へやら、自由時間となる。
三郎は連れている牛、霧島に水をやらねばと、二三人と共に丘を下りる、そこには平坦な道があった。何処から来て、何処に続いている道であろうか、とにかく空の開けている方向へと進む、少し行くと其処には北より流れ出た、川幅は100メートルはあろうきれいな川に出合った、両側に川原が有り、中央に浅瀬があり、ここちよい音を立て流れている。此の流れの果てに鏡白湖があるのではなかろうか、そんな感じがする。牛に十分水を飲ませ川岸に繋ぎ。涼しい川風に誘われ故郷のあの川をおもいながら川原を散策すること暫し。すると遠くの方で「中平、中平」と呼ぶ声がする。さては!と走りながら近づいてみると「あの牛はお前の牛じあーないか?」と指をさす、見ると確かに自分の牛だ。二人の満人が霧島を曳いて向う岸へ急いでいる。「あ"そうじや、僕のじぁ」慌てて皆で「こらー、こらーあ」と叫ぶ、しかしどんどん遠くなる。三郎は此の時とばかり持っていた銃に実弾を込め゜「撃つぞー」と大声で叫び撃つ真似をすると。これには満人もおったまげ「アイャマー」「アイャマー」とわめきながら引返して来た、そして銃口の前でぺこぺこと頭を下げる。まことに効果的面。銃は身から放してはならぬ、との教え、身をもって体験したのである。
 その帰り道の事である。聞きなれない自動車の音がする。やがて現れたのが、自分達の見た事も無い車、あの山下将軍が乗って来た車に、似ているが、あれよりももっと頑丈そうな車。その車にはソ連兵らしき者が銃を構え、こぼれる様に乗り、その中に日本の将校が白い柄の日本刀を杖に、胸を張って乗っている。車には白旗をなびかせ、われわれには目もくれず通り過すぎて行った。「ありゃあ、あれはソ連の捕虜ぞ!!、」誰かが言う。そうだ白旗と言い、日本の将校と言い。確かにあれは捕虜じあ、日本が勝つたんだ‼。私達は喜び勇んで宿舎へと帰った。ここでも勝った、勝ったの大騒ぎ。今夜もお互い思い思いの楽しい飯盒炊さん、そして此処での二日目の夜がしずかに更けた。
朝霧を破る起床ラッパ。集合、点呼。隊長より、「日本が勝った、これより元の訓練所に帰る」。その他の諸々の訓示があり一同出発の準備をする。
 尖兵四五人を先に出発させ、長蛇の列は山頂へと動き始めた。山腹まで来たかと思うと、突然山頂付近でけたたましく機銃の音。さて何が起きたのだろう?昨日の満軍に遭遇したのだろうか、やがて頂上付近に近付いてみると、これはびっくり仰天。何とソ連の重戦車が四五台居並び行く手を塞ぎ、銃口を我々に照準している、中には天蓋を開け身を乗り出して機銃を構えている兵もいる。そして道の両側の笹竹の中に、先発の我々の尖兵全員が無残にも蜂の巣のように撃たれ倒れていた。        つづく