サブロー日記

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草鞋を履いた関東軍           18

2011年01月20日 | Weblog
   草鞋を履いた関東軍      18
  2011.1.

 全く予期しなかった此の有様。先刻聞いた機銃の音は、これであったのか、私達はこの撃たれた戦友達を仮埋葬し、冥福を祈った。戦死者の現場を見たのは初めて、まことに無残なものである。この戦車隊と私達も戦えばひとたまりも無く、数分の内に全滅するであろうことは明白である。戦車から何時火を噴くか分からない状態で、我が幹部達はソ連側と交渉している。やがて幹部より、銃を足元に置くように指示された、さては?と思っていると、ソ連兵が四。五人銃を集めて廻った。武装解除である。小隊長は、銃は取られても弾はいつか必要になる、弾は持って居れ。との事である。銃が無ければ使い物になるまいに‼、取り上げられなかったこの弾が重い、又ポケットに入れる。
交渉が終わったらしく、先方から動きはじめた。大きな戦車の合間を潜り抜け峠へと向かう。行き違いにソ連軍の重戦車スターリン戦車か、カチューシャかは知らないが、無線のアンテナをなびかせながら次々とやって来る、その後に続く歩兵、間近に見るソ連兵、真っこと珍しい。髪の毛、目ん玉、鼻、皮膚の色、体毛、体格すべて初めて見る異国人。ロシア人をハルピンの街で見た事はあるが、こんなに近くで異人を見た事は無かった。三郎はこの珍しい人間をまじまじと頭のてっぺんから、脚の先まで監察?させてもらった。そして装備。服装と言い、持ち物はまことにお粗末である。背嚢たるや、ただの袋に紐を付けたような物、靴は皮の半長靴である。わが関東軍とはてんで比べ物にならん。ドイツ戦線で戦って来た其のままの装備であろうか。勿論草鞋(わらじ)は履いていなかった.
 峠を越えてやや平坦な道に来る、其処で出会った一隊の中には、何と女の兵隊が居るではないか。しかも将校である、軍服をきちっと決め込み、大きなピストルを腰に、金髪をなびかせながら、さっそうと馬で駆ける、その姿は、何と美しいことよ!この最前線に、こんなきれいな女性の兵隊が居るとは、想像もしていなかった。三郎の驚きは脳天を貫いた。日本ではモンペをはいて、竹槍のけいこをしているだろうに、、、。
先頭きってここに侵入して来たのは、ドイツ戦線で活躍した、主に囚人で編成された部隊と聞く。彼らはドイツ戦線に従軍したと言う勲章を自慢して見せびらかす。このソ連軍、ソ満国境で日本軍とどれほど戦ってここまでやって来たのであろうか?。
私達はいつの間にか、ソ連兵の銃口に支配されながらの行進となっていた。これが捕虜と言うものであろう、戦陣訓ではここで自決せねばならないのであるが、その気にはならなかった。まだ負けたと言う事すら感じなかった。
此の当りから次々と馬をソ連兵に取り上げられた。その馬がすぐソ連兵の言うことを聞く。乗馬にたけたソ連兵、畜生だから仕方がないとは言え、今まで可愛がっていた愛馬が、直ぐに敵兵の言うがままになるとは、まことに情けないやつだ。三郎の牛は取上げられなかった、ソ連兵も牛では用事にならんと思ったのであろう。
重い銃が無くなり手軽になった。それにしても、あの草鞋を履いた兵隊さんはどうなったのであろう、会ったのは此の当たりだったのだが?無事本隊に合流出来たであろうか、また山中へ逃げ込む事が出来たであろうか、そんな事を案じながら、青い目をしたソ連兵にダバィ、ダバィと追い立てられながら行軍が続く。暫くぬかるむ道を進むと、道端に日本兵が三人倒れているではないか。そうだ此の人達は二三日前に行き違った騎馬斥候の兵隊さんであろう、無残にも泥道にうつ伏になって死んでいる。私達は捕虜の身、何の手当ても出来ず、申し訳ない気持ちで通り過ごしたのである。
やがて第一日目に野宿した岩盤地帯に戻って来た。雨も降り出した。もともと、雨具、テントは支給されてない私達、わが毛布をテントのように張って雨を凌ぐ、毛布は純毛の上等の品であったから雨を通さなかった。その夜から、我々が通って来た街道を昼夜を分かたず、ソ連の戦車、トラック、各種の火砲、兵隊、パン焼きの車、あらゆる戦略物資を、三日三晩、引っ切り無しに進入して来た。夜は夜で昼のように明るい照明弾をあげながらの進行である。その夜、栗田所長の恩賜の軍刀を、ソ連兵が盗もうとした、所長は副官の日本刀を引き抜き、そのソ連兵を追っかけた、との話が伝わった。捕虜になっても指揮官は軍刀の持参が許されていた。その後どうなったかの話は伝わって来なかった。
 明くる日、私達広瀬中隊の一小隊二十人くらいの者がソ連兵の指示と監視のもと、野菜や食糧を探しに行く事となった。ソ連兵はその場所を知っていたのであろうか、何キロか離れた小高い丘を越えると、其処にはやや窪地になった所が有り、満人の一軒屋が有った。家と言うより小屋である。我々が近付くと、此の家の裏から二人の日本兵が銃を持って飛び出し近くの草むらに伏せた。幸いソ連兵には見つからなかった。ソ連兵二人は馬に乗り自動小銃を胸にぶら下げ、我々の行動を監視しているので、この事には気付かない、草むらからの声「隊長さん、あれを殺(やり)ましょうか、こちらも二人確実にやれますが」我が広瀬中隊長はソ連兵に気付かれないように、何食わぬ顔で「此の二人を殺しても近くにはソ連兵が沢山居ります、逃れる事は出来ないと思いますので、日本軍の本隊に、我々義勇隊員数百名が捕らわれ、三キロほど先の岩盤地帯に拘束されている事を伝えて下さい」と救援を頼む、日本語の分からないソ連兵は知らぬが仏。
ソ連兵は、その小屋の様子を見に近付くと、中からの農夫らしき満人が一人出て来た。なにやら身振り手振りでソ連兵と話している。我々は知らん顔して、此の満人の作った周囲のジャガイモやカボチャ、野菜を沢山頂戴し無事宿営地に帰り、中隊全員に配分した、しかしたいした量では無かったが、久しぶりに野菜を手にする事ができた。その夜もソ連軍の侵攻はものすごいものであって、なかなか眠る事が出来なかった。明くる日は、此処を立ち、元の訓練所、東京城方向へと進む、夕方近く見覚えの有る、沙蘭鎮の街に到着。此処からは、元の訓練所へ四キロほどの地である。訓練所へ帰してくれるのだろうか、ひそかな望みはあったが、今夜もここで野宿となった。ここは此の町を貫く幹道と、北の方向、和尚屯への道が分かれている所である。野営の準備をしていると、丘の上から何とも言へない、ものの腐った臭いがしてくる。さては?と二三人で恐る恐る丘に近付いてみると、何と丘の大豆畑に四.五人の日本兵が倒れている、軍服がはち切れんばかりに腐乱し、丸々と膨れあがっている。襟章の星が黄色く夕日に映え、哀れを誘う。
みな蛸壺から出て死んでいる。おそらくそこらの満人に引き出され、持ち物や銃剣を盗られたのであろう。何一つ身に着けてない。そして、その直ぐ下の斜面を見ると、其処にはソ連兵が五.六名死んでいる。その一人は、胸を撃たれたのか、胸いっぱい白い包帯をしている、又のその包帯の上からも何発もの弾をうけ血に染まって死んでいる。ソ連兵にも癇癪なやつも居ったようだ。ソ連兵も銃は盗られていたが、その頭元に手榴弾が二.三本転がっている、ソ連の手榴弾はボーリングのピンの様な形をしている。さすがこれは危ないと思ったのか、盗られていなかった、それにしてもソ連は勝ち戦、もう戦闘が終わって四.五日にはなっているのに、自分の軍の戦死者をそのまま野ざらしにして居るとは何たる事ぞ‼ 。
あとで聞くところによると、この沙蘭鎮の攻防戦では、わが日本軍七五名、ソ連兵一二〇人の死体が有ったと言う。
我々の後を戦いながら撤退していた日本軍も居たのだな、と、戦闘の様子を想い、ただただ冥福を祈るのみ。この夜、わが戦友四名がソ連兵の監視を潜り抜け、逃亡した。(この人達はついに帰国する事は無かった)        つづく