・室町期から江戸、明治そして
つい昭和18年~20年ごろまでに生きた人の感覚と
今の日本人の感覚は大きく異なるものがあります。
それをまとめると
・歩みをすすめる感覚
・ものを大切にできる感覚(皮膚接触をさします)
・人に対する感覚 =人と関わり合う感覚
・呼吸と向き合う感覚(呼吸法ではなくて普段のもの)
・肌の感覚
ちょっと思いつくものでもこれだけあります。
武術や書カルチャーなんかで生徒さんと向き合ってきて
どうしても表面ばりのテクニックや技に(生徒さんの多くは)こだわってしまいます。
こだわるのは悪い事じゃない、善いことなんだけれど
大切なことを学ばずに、いきなり技
つまりからだの動かし方に性急にいこうとします。
そうすれば、本質を見失うため、結論としては
なんにも身に付かない、時間ばかり失うことになっちゃいます。(お金も失いますね、タイムイズマネーですから)
大切な事
それは"感覚"です。
日本人がかつて生活の中で自然に身につけてきた「感覚」を言っています。
・食事でもそうです
電気冷蔵庫はありません、防腐剤もつかわれていない
人の嗅覚が触覚や視覚がフル活躍します。
その日の調理はその日に仕入れた食材が基本です。
・見た目より「肌ざわり(風合い)」を大切にした国民服。
国民みんな来ていたと言えば、着物です。着物と言っても浴衣みたいなもので
成人式の高級な着物をイメージしないでください。
着物は、江戸期からつい昭和まではみんなきていました。(明治期からは西洋服が入ってきましたが庶民はまだ着物)
季節的なもので着物を着ていたというより、日本人にバッチリ合っていたから
着物で過ごしていたと考えます。
私も茶道の稽古は、着物・袴で時々やっています。
居合も着物です。
帯をしめて(武道の帯じゃなく)やっています。
感覚と言うのは、知識じゃなく「ほらっ!!」と見せることができません。
しかし、確実に教えることができるものです。
では、なぜ世の中の教室・道場などでは教えてくれるところが稀なのか?
それが「感覚」をとることを大切にしているかを、それぞれの指導者がどの程度の割合でやっているかということにつきます。
有料体験の際に臨時で
行った講座(疲れない・苦しくない登山法)でもそうですが
私は、テクニックを教えていなくて
こうすれば「こういう感覚」が生じますよ
それを大切にして行動をおこしたとき、身体に影響がでますよと
「ほらねっ!」というふうな指導をしています。
それが私のところへわざわざ有料体験として
来られる生徒さんへの指導の柱として大切にしています。
そうです、"感覚"を教えていけるのです。
そのためには、こうしましょう、こういう姿勢をまずは取ってください。と言ってます。
・今の日本人がほぼ失った感覚。
『歩みをすすめる感覚』
どこで失ったのでしょうか。
小学校6年間でほぼ失い、中学3年間で追いうちをかけられ
高校生活でダメ押しされるというのが私の見解ですよ。
その根拠はあります。がしかしスルーして
とにかくどういうことかを説明すれば
むかしの日本人の歩き方とは180度異なるということです。
むかしの日本人は、足の筋力にたよる歩き方は100%していませんでした。
それは、着物を着ていたからです。
それが答えなんですが、
じゃあ、現代でもむかしのような自然な歩き方をしている方はいるのか。
少数派ながらいます。
その方面の武術家と着物を普段から来ている、またはよく着る人です。
私は、この筋力によらない歩き方(着物歩きの理論)を手に入れたので
登山も平気でやれています。
歩いても筋肉痛にならず、膝も痛めず、息切れもせず快適に歩けますし、登れますし、下れています。
でも主にですが、歩く形のことを言っているのではありません。
あくまでも、その感覚のことを言っていますし、問題にして指摘しているのです。
もちろん、私の言う歩き方がいいとか、すぐれているとかを主張したいのではなくて
人間の便利に移り変わっていく生活環境の中でも
古人の感覚を思い出してみませんか、自分の身体で味わってみてから
選択しませんかとコンセプトを提示しているだけです。
合気道の運足①がそれにあたります。
今日の一般部の稽古でも
肥え担ぎを実際に行った方(60歳以上の生徒さん)にその歩き方を思い出してやってもらいました。
運足①と同じなんです。
それは
お尻のほっぺで歩いている。
前足荷重になんっている。
足の小指の山で着地している。
重心が安定している。
筋力を使っていない歩き(西洋風の体育歩きをしていない)
つまり日本人の失った歩く感覚がよみがえってきます。
その感覚は、「気持ちいい」です。
つい昭和18年~20年ごろまでに生きた人の感覚と
今の日本人の感覚は大きく異なるものがあります。
それをまとめると
・歩みをすすめる感覚
・ものを大切にできる感覚(皮膚接触をさします)
・人に対する感覚 =人と関わり合う感覚
・呼吸と向き合う感覚(呼吸法ではなくて普段のもの)
・肌の感覚
ちょっと思いつくものでもこれだけあります。
武術や書カルチャーなんかで生徒さんと向き合ってきて
どうしても表面ばりのテクニックや技に(生徒さんの多くは)こだわってしまいます。
こだわるのは悪い事じゃない、善いことなんだけれど
大切なことを学ばずに、いきなり技
つまりからだの動かし方に性急にいこうとします。
そうすれば、本質を見失うため、結論としては
なんにも身に付かない、時間ばかり失うことになっちゃいます。(お金も失いますね、タイムイズマネーですから)
大切な事
それは"感覚"です。
日本人がかつて生活の中で自然に身につけてきた「感覚」を言っています。
・食事でもそうです
電気冷蔵庫はありません、防腐剤もつかわれていない
人の嗅覚が触覚や視覚がフル活躍します。
その日の調理はその日に仕入れた食材が基本です。
・見た目より「肌ざわり(風合い)」を大切にした国民服。
国民みんな来ていたと言えば、着物です。着物と言っても浴衣みたいなもので
成人式の高級な着物をイメージしないでください。
着物は、江戸期からつい昭和まではみんなきていました。(明治期からは西洋服が入ってきましたが庶民はまだ着物)
季節的なもので着物を着ていたというより、日本人にバッチリ合っていたから
着物で過ごしていたと考えます。
私も茶道の稽古は、着物・袴で時々やっています。
居合も着物です。
帯をしめて(武道の帯じゃなく)やっています。
感覚と言うのは、知識じゃなく「ほらっ!!」と見せることができません。
しかし、確実に教えることができるものです。
では、なぜ世の中の教室・道場などでは教えてくれるところが稀なのか?
それが「感覚」をとることを大切にしているかを、それぞれの指導者がどの程度の割合でやっているかということにつきます。
有料体験の際に臨時で
行った講座(疲れない・苦しくない登山法)でもそうですが
私は、テクニックを教えていなくて
こうすれば「こういう感覚」が生じますよ
それを大切にして行動をおこしたとき、身体に影響がでますよと
「ほらねっ!」というふうな指導をしています。
それが私のところへわざわざ有料体験として
来られる生徒さんへの指導の柱として大切にしています。
そうです、"感覚"を教えていけるのです。
そのためには、こうしましょう、こういう姿勢をまずは取ってください。と言ってます。
・今の日本人がほぼ失った感覚。
『歩みをすすめる感覚』
どこで失ったのでしょうか。
小学校6年間でほぼ失い、中学3年間で追いうちをかけられ
高校生活でダメ押しされるというのが私の見解ですよ。
その根拠はあります。がしかしスルーして
とにかくどういうことかを説明すれば
むかしの日本人の歩き方とは180度異なるということです。
むかしの日本人は、足の筋力にたよる歩き方は100%していませんでした。
それは、着物を着ていたからです。
それが答えなんですが、
じゃあ、現代でもむかしのような自然な歩き方をしている方はいるのか。
少数派ながらいます。
その方面の武術家と着物を普段から来ている、またはよく着る人です。
私は、この筋力によらない歩き方(着物歩きの理論)を手に入れたので
登山も平気でやれています。
歩いても筋肉痛にならず、膝も痛めず、息切れもせず快適に歩けますし、登れますし、下れています。
でも主にですが、歩く形のことを言っているのではありません。
あくまでも、その感覚のことを言っていますし、問題にして指摘しているのです。
もちろん、私の言う歩き方がいいとか、すぐれているとかを主張したいのではなくて
人間の便利に移り変わっていく生活環境の中でも
古人の感覚を思い出してみませんか、自分の身体で味わってみてから
選択しませんかとコンセプトを提示しているだけです。
合気道の運足①がそれにあたります。
今日の一般部の稽古でも
肥え担ぎを実際に行った方(60歳以上の生徒さん)にその歩き方を思い出してやってもらいました。
運足①と同じなんです。
それは
お尻のほっぺで歩いている。
前足荷重になんっている。
足の小指の山で着地している。
重心が安定している。
筋力を使っていない歩き(西洋風の体育歩きをしていない)
つまり日本人の失った歩く感覚がよみがえってきます。
その感覚は、「気持ちいい」です。