「山は裂け 海はあせなん 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」
たとえ、山が裂け海の水が褪せてしまう世の中になろうとも、私の君を思う心は決して変わりません。
凄ーい熱烈な恋歌のように見えますが、実は君とは後鳥羽上皇の事で、尊敬する上皇に対する篤い忠誠心を誓う気持ちが表現された歌です。
作者は源実朝、鎌倉幕府の第三代征夷大将軍です。純粋な情熱家というイメージがあります。
26歳で悲劇の死を遂げた彼の歌に、学生時代の私は憧れめいた気持ちを持っていました。
冒頭の歌について、かなり長い間実は秘めたる恋の歌だとずっと思いこんでいました。
「大海の 礒もとどろに 寄せる波 割れて砕けて 裂けて散るかも」
この歌に、この人の秘められた鬱屈を想像して自分の気持ちと重ねたのは高校生の時でした。
しかし、半世紀以上過ぎた今、やっと彼の歌の本当の意味が理解できた気がいたします。
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実朝12歳の時自ら望んで京の都から娶った妻と死ぬまで仲睦まじく暮らしたという事です。
この妻の人となりを知って望んだ訳ではなく、親から勧められた縁談を断り、京都の貴族を頼って妻を選んだそうです。
思うに彼は権謀術策が横行する武家社会につくづく嫌気がさしていたのではないでしょうか?
彼の実の母、北条政子の弟北条義時は野心家で、隙あらば政権を握ろうと考えていたのです。
二代将軍頼家は気性が激しく義家にたてつく事も多かったため、陥れられて伊豆の修善寺に蟄居させられました。
結果的に謀殺されて、その死後弟の実朝が将軍になったのです。実朝は、文才に優れていたものの病弱で野心家とはほど遠かったのです。
母政子は気遣って、頼家の遺児公暁を実朝の養子にしました。後年、公暁は鶴岡八幡宮の長官となり、平穏がよみがえったと見えました。
ところが、1219年2月13日、鶴岡八幡宮に参拝した実朝は公暁に暗殺されてしまうのでした。
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公暁は「親の敵かく討つぞ」と叫んで実朝を惨殺したそうですが、その親が死んだ時にほんの子供であった実朝がどうして敵なのでしょうか?
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公暁は「親の敵かく討つぞ」と叫んで実朝を惨殺したそうですが、その親が死んだ時にほんの子供であった実朝がどうして敵なのでしょうか?
どういう話を吹き込まれたか、公暁に聞いてみなければ分かりませんが、そのころも形こそ異なり偽情報の飛び交う世の中だったのかも知れません。
実朝は実子がない為頼朝の血は絶え、北条氏の世の中になります。
信じられない歴史ですが、当時は公然と血族同士が入り乱れて戦っても不思議のない世の中だったのですね。
「仁義なき戦い」は大昔よりあったようですが、今に残る歌はその惨たらしさを美しくカバーしてくれています。
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「昼ごはんに何かないか」と冷蔵庫を探したら、干しエビがありました。
小鍋にだし汁を煮立てて、干しエビ、残りご飯、ネギ、を入れ、醤油とみりんで味付けし、卵でとじました。
見た目かなり悪いけど、味はまあまあでございました。