松ヶ根に 小草花咲く 秋隣
(正岡子規)
暑い最中にザッと雨が降りやすく、それが過ぎると立秋、今じゃ名ばかりかも知れませんが、来たる8月7日は立秋で暦の上で待望の秋となります。
そして秋の気配をすぐそばに感じる、と言う意味の夏の季語が立秋です。
痩せ我慢の仮の秋でございます♪
このつゆ草、いかにも秋です。
ご存知のように日本においても、宗教迫害の歴史は多々あります。
このつゆ草、いかにも秋です。
秋とは移ろいに敏感な季節で、蝉の声にも儚さを感じます。
儚いと言えば、人の心ならぬ最近のネット風評です。儚く消える話題が多いのは何故でしょう?意見が日によってコロコロ変わって何を信じていいものやら分からない。
最たるものが政治家と宗教の関係、これ以上言うと我が身が怖い事になる(と勝手に怖がり)最新の話題に一切触れません。
ただし、政治家と献金などの関係があるか無いかの、日によって変わる識者の発言に戸惑いを感じています。
もともと洋の東西を問わず、宗教が政治を左右していた歴史的事実は枚挙にいとまはありません。
ホントに古いところで、ユダヤ人迫害です。これはナチスに限らずモーゼの昔からあったそうです。イエスキリストをユダヤ人であるユダが金で売り(居場所を密告して)、その為キリストが磔という酷たらしい死に方をしなければならなかった、と言う情報!が広まって、ユダヤ人、ユダヤ教を信じる者は等しく差別の対象となったのです。
まあこれは聖書に書かれた史実なのでしょうが、実は別に12使徒の中にもユダヤ人はいたそうで、一概にユダヤ人が全て反キリストとは言えないそうですね。
キリスト教内の新教と旧教の対立も政治的思惑(異なる教徒を敵として自分が信じる宗教を善と広める)が絡んで、異教徒の大虐殺に発展した事も中世ヨーロッパにあります(聖バルテルミーの惨劇)。
最近の同時多発テロ、ここから世界情勢が大きく変化した事を観れば、宗教は世界の歴史を左右するものかも知れないです。
少なくとも、「目には目を歯には歯を」の教えは、「汝の敵を愛せよ」の教えの信者にかなり通じにくく、野蛮に見えるでしょう。
ご存知のように日本においても、宗教迫害の歴史は多々あります。
織田信長の一向宗の寺院焼き討ち、信徒の虐殺、これも自分の政治を邪魔するものだからでしょうね。
という事はこれらの教えを信じる人が多くなると、彼のやりたい事が出来なかったからで、熱烈な信者が国を動かす危険性があったからでしょう。
歴史的に、日本人の政治家の殆どが無宗教のようです。
ただし、信徒の多い宗教を利用した政治家は多かったようです。かの徳川家康の家の宗旨は浄土宗、つまり許容性の高い、以前のblogでも述べたように念仏を唱えさえすれば浄土に行ける(正しい意味は違う)教えです。「これは今の戦乱の世に受ける」と思ったのかどうか、家康様は「欣求浄土」と「厭離穢土」の2本の幟(浄土宗の教義)を本営に立てます。
死ぬのは怖くない、人を殺しても阿弥陀の名前を呼べば極楽へ行ける、と吹き込んだ訳。
なので「殺してはいけない、殺すのは大罪である」と信じるキリスト教徒は家康にとって、非常に目障りだったと思います。
それらの歴史を経て、日本は伝統的に宗教が自由、悪く言えばいい加減な国であります。
宗教を盲信する政治家は殆ど居ないでしょうが、信者を味方にする政治家はいるかも知れません。
それでも宗教は自由です。
神棚を飾って元旦にはお寺参り、クリスマスには教会の讃美歌を聞いても、誰も文句は言わない。
私自身として、宗教の自由さにおいてこんな良いところはないと思ってますが。
涼風を期待する筈の話が暑苦しくてお許しください。