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「いえ、何とも思ってませんでした。とても優しい先輩で、懐かしい友達に会わせていただき感謝してますが。
それに、私近々結婚するんですよ。このご近所の方と親しくなったのです。本当にご主人とはいい思い出を共有するに過ぎないのです」
奈美は心から安心した。
嘘の言えない相手のようだし、不倫をしている生臭さが無い。
思い過ごしだったんだ。
「それはおめでとうございます。ごめんなさいね。変な誤解して本当に失礼しました」
奈美はウキウキと我が家へ戻って行く。「今晩は寿司を奢ろう」と思って弾んだ脚で帰った。
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萌は歩きながら、死んだ母の思い出に耽った。
弱い人だった。
とりわけ人の嫉妬に酷く傷ついた。
高校の頃父が浮気した時、当たり前のヤキモチがやけない。
自分の中で葛藤するだけである
心の奥底に何があったか知らないが、哀しそうな目で黙々と家事をしていた。
あの人、父の愛人、が萌の家に現れたのは、真夏の日が照りつける日だった。
ちょうど夏休みで萌は冷えたスイカを頬張っていた。
あの人の綺麗な顔がつり上がって、お芝居で見た魔女そっくりだった。
あの人は母に言った。
「ご主人は私のものよ。私たち心も身体もピッタリとした相性なの。あなたはお人形さんみたいでちっとも面白くないって」
わざとらしく笑った。
今思えば気まぐれな父とのデートが間遠になった不安で、家に乗り込む様な真似をしたのだろう。
あの人もかなり錯乱していたに違いない。
母は大きく目を見開き、張り付いた様な顔になった。
次の瞬間、凄まじい大声で泣き出した。そして目に付くものをやたらに投げ始めた。その目が異様に光っていた。
女はびっくりして逃げ出した。
その後の消息を萌は知らない。
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母はいつまでも興奮した動きが止まらなかった。
知らせを受けた父は帰宅して、苦労して病院に連れて行った。
その父の顔を母はビシャビシャと叩いた。
精神科の個室に入院した母は、二度と家に戻らなかった。
食事がとれず、点滴を拒否して注射針を折り、何も受け付ける事なしに全身が衰弱して亡くなった。
葬儀も告別式も、見兼ねた親戚が取り仕切ってくれた。父はただ茫然自失としているだけ、萌は酷いショック状態に陥った。
時が過ぎ、ケロリとした顔で仕事に向かう父が、萌は他人だと思えた。
人の心はなんと冷酷なものだろう。
母が狂い死んだのは、父の浮気が原因だと言うのに。
萌は深い人間不信に陥った。
萌が無事高校生活を終えられたのは、図書室で泰に何度も励まされたからだ。
「萌ちゃんの笑顔が好きなんだ。辛いだろうが、過去に囚われちゃいけないよ。これからの萌ちゃんの人生が一番大事じゃない!」
萌は正直泰が好きだった。
男らしい泰は女生徒に人気があった。
それ以上踏み込んで、自分が嫉妬される立場で平気でいられるだろうか?不安と躊躇が、それ以上踏み込む心を抑えた。
母は、優しくって家庭的な見かけは成熟した女性でありながら、未成熟な心を持っていた。
誰もが心に持つ嫉妬の感情を上手に処理出来ず、ひたすら耐えていたのが、凄い形で爆発したのだろう。
今の萌に結婚を約束した人など居ない。奈美を安心させる為に嘘をついたのだ。
萌の心はホッとした気持ちと虚しさが入り混じっていた。
もう泰には会えないだろう。
自分だっていつか安定感のある家庭を持ちたい。
嫉妬心などほんのつまらないものだと笑って受け流す強さが欲しい。
自分が成熟した心を持つ時は来るのだろうか?
心は作られるものじゃない、作るものかもしれない。
心を鍛えて、誰かに出会って恋がしたい。萌は強く思った。
マンションの明かりは萌に優しかった。