もうすぐ終戦記念日がくる。
まるで一連の行事の様に大した感慨もなく迎える世代が大半の現代である。
ただ、あの日からずうっと日本は戦禍に遭う事なく、平和に浸ってきたのだ。
その平和の有難さを再確認しようと、『戦争中の暮らしの記録』から何枚かの写真をUPしてみた。
最初に載せたのは、本物の国会議事堂のすぐ前で野菜を植え付けている都会の庶民の写真だ。
当時の凄まじい食糧不足から身を守るために、人々は土のあるところならどこでも耕して野菜を作った。
丹精込めたその臨時の畑も空襲のため無残に壊されてしまったが。
これは花の銀座が空襲に遭ったところだ。
昭和20年5月、連日の爆撃にくたびれきった人の表情が可哀そうである。
目黒区自由が丘、おしゃれなあの街も空襲に遭った。
その翌朝、まだくすぶっている家屋を必死で消火している主婦である。
手に持つのはバケツの水、あまりにもお粗末だが、これしかないのだろう。
爆撃機は悪魔のように隅なく(非常に計画的に全滅の作戦を立てたそうだ)住む街を襲っていく。
人家の少ない田舎へ、逃げる、疎開する人々は跡を絶たなかった。
しかし、汽車の台数も少なければ、運転手も不足して、いつ汽車が動くか全くわからなかった。
人々は争って列車に乗った。
押しつぶされて死んだ人がかなりいたという。
特に子供や弱者は犠牲になり易かった。
写真では軍帽のように見えるが、戦争当時この帽子が一般化していた。
これは焼け出され、着の身着のままで生活している家族である。
バラックは手作りだろう。
惨めと感じる以上に、周りが全部そうだったので、生きるのに精いっぱいだったと言える。
この女性たちは、当時の若い独身女子挺身隊だった。
この服が日常着で、働き着で、式服の用もしたという。
カーキー色の木綿でゴワゴワだったそうだ。
そして外出するときはこれにゲタを履いたという。
又、髪型も規制され、ゴムひもでしばった野暮なものにの甘んじていた。
おしゃれは心の隙を作る敵だったようだ。
ひどい生活とため息が出るが、よく分かるのはその中で殆どの人が生き抜くのを目的に精いっぱい暮らしていた事である。
いつかこの状態から抜け出せる、その希望が平和だったと思う。
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