読書の森

流れの中で



昔、もう故人となった先輩から、「大河に乗ってスイスイ渡っていく人ばかりだ。
その流れを塞きとめる位に逆らう生き方も良いではないのかな」
と謎の様な言葉を頂いた。

それは学生運動が真っ盛りのキャンパスの横のこれも今は無い喫茶店で聞いた話である。

その時、バカな私は流れを自分の運命の流れとしか考えられなかった。
つまり、そのまま時勢に乗って場当たり的に生きるよりも、信念を貫いて自分で流れを作る生き方をイメージしていたのである。

今思うに、おそらく先輩は何でもかんでも反対と唱え、徒党を組んで行動する驚異的人数の学生デモに、ある疑問を持っていたのだと思う。
そこで、彼なりに大勢の流れと共に生きるよりも独自の生き方で世を変化させたいと思ったのかも知れない。
確かに、先鋭化して危険な方向に走った運動家を除き、大部分の学生運動の参加者が高度成長の企業戦士として目覚ましい活躍をした筈である。
時流に乗れる人は生き方上手だ。

その先輩は、狷介な点もあったが純粋過ぎて、世渡りが下手な人だった。

自分や先輩の例を見ても感じるが、流れに逆らって生きるのは明らかに損ではあるのだ。



今日新聞を見ながら、この古い記憶が蘇った。
無性に、この世の流れについてお喋りしたくなってしまった。

五木寛之は確か「人は宿命の大河を運命の小舟で渡る」様な意味の事を書いていたと思う。

古希を迎えて身に染みるのは、この世の宿命に逆らって生きるのは不可能だという事実である。
例えば死の床で一人で起き上がりたいと思っても、それは哀しいが出来ない相談である。
しかし、死を潔く受け入れてそのまま流されていく人を私は好まない。

人の運命はその人のものである。
諦めずに生きての結果がナンボのものであっても、諦めない人を私は好きだ。

そういう意味で自分の運命を諦めずに、宿命という流れに乗るのは決して功利的生き方とは思わない。

人の歴史の中で、何度も何度も不死鳥の様に蘇った魂の流れは地球の持ち時間で測れるものでは無い。
諦めから何も生まれない。





五木寛之氏の『大河の一滴』は私の解釈とは異なります。
人生は理不尽の連続であっても、聖諦ともいうべき諦観を持つ事で吹っ切れるという事だと解釈しました。
ペシミズムが悪い訳ではない、無理をして宿命に挑み続ける事が果たして正しいかという事ですね。


ただ戦争について、私は諦めて受け入れてはいけないと、強く強く思います。
こればかりは諦観を持つのは嫌ですし、流されたくないです。

読んでいただき心から感謝いたします。

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