全て公立の学校で、北小学校(岐阜県大垣市)、徳持小学校(東京都大田区)、川崎市の小学校、羽田の小学校、矢口東小学校(大田区)、千鳥小学校(大田区)の順です。
千鳥小学校は目蒲線と池上線のほぼ真ん中に位置した住宅地にあり、昭和30年代当時のごく普通の家庭の子が学ぶ学校でした。
一番長い期間学べて友達もいっぱい出来た私にとって幸せな時でした。又そこは憧れの大学へ通い始めた、幸運の舞い込んだ所でもあります。
おんぼろで小さな借家で、隣家の床屋の巨人ファンの奥さんの応援する声がモロに聞こえる所でしたけど、何故かとっても勉強が捗ったのです。
家の前は直ぐ狭い道路で当時はクルマが殆ど通ってません。自分でも嘘みたいに思えますが、小学校時代、昼間は行商がよく通りました。
「あっさりシジミ」(これがあっさり死んじまえ)と聞こえる魚屋、「とうふい、とうふ」と豆腐屋、「竹や竿だけ」(物干し竿を売る)、「クズいお払い」(屑屋)、、。
江戸時代から続く物売りがホントに通ってましたよ。
テレビは今の上皇ご夫妻のご成婚(昭和34年)以前は普及していないのでラジオだけです。大した電波障害も無いし、歌好きの両親のお陰で当時の流行歌ばかり綺麗な音で聞こえておりました。
その頃一番の人気歌手が三橋美智也で『哀愁列車』がたいそうな人気でした。一番覚えやすかったのが春日八郎の『お富さん』、この手の歌は両親の好みでは全然無いけど、あまりよく歌が流れるので、子どもの私は歌詞を覚えてしまいました。
前者が「惚れて惚れて惚れていながら行く俺に旅をせかせるベルの音」
後者が「粋な黒塀見越しの松に仇な姿の洗い髪、死んだ筈だよお富さん、生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏のお富さん」
歌を通して随分と小学校と違った世界を覗いてしまいました。
さて本題の夜明けの読書の中身は、格調高い岩波文庫の『グリム童話集』で全巻ありました。原作通りの訳です。
近眼の度が進んでも読書がやめられなかった私ですが、放課後は近所の子と家の前の赤土の(関東ローム層特有です)原っばで遊びました。
さて本題の夜明けの読書の中身は、格調高い岩波文庫の『グリム童話集』で全巻ありました。原作通りの訳です。
当時早稲田大学理工学部に通う従兄弟が譲ってくれたのです。
読書好きの私は大喜びで興奮しちゃいました。早くたくさん読んでしまいたい。
そこで一番頭の冴える夜明けにこっそり起きて布団の中で貪り読みました。
親に見つかると目を悪くするから止めろと言うので、電気スタンドに覆いをかけて、お腹が空くのでオヤツの残りをモグモグしながら読んだグリム童話集は実に面白うございました。
本物のグリム童話は結構残酷かつリアルでした。
小学校高学年の私にとって一番の快楽が夜明けの読書で、これに味をしめて古本屋さんを漁ってお小遣いで本を買って読んでました。谷崎潤一郎とか芥川龍之介とか、、です。恋愛小説!です。
それだけで満足せず親の読み古しの大人の雑誌をこっそり読んでしまったのです。当時の私の頭の中の方がませてたのかも知れません(?)
その結果、両親も祖父母もおば達も近眼じゃないのに私一人近眼になってしまったのです。
近眼の度が進んでも読書がやめられなかった私ですが、放課後は近所の子と家の前の赤土の(関東ローム層特有です)原っばで遊びました。
その頃は全然整備してない空き地がいっぱいありました。
鬼ごっこ(不得意)、かくれんぼ(一番好き)、下駄隠し、だるまさん転んだ、はないちもんめ、、。
楽しかったのです。
この原っばの側を当時の東横線(今の東急目蒲線)が走ってました。本数も少なくとゴトゴトとのどかな音を立ててます。
本数が少ないので、子どもたちは線路を渡って線路脇の川でザリガニ捕りをしたのです。野蒜も生えていて家に持って行って食べた子もいたみたいです。
嘘みたいな昭和31年から昭和33年当時の思い出です。
夜明けの読書に備えて早寝した私の耳に東急電車の音が聞こえます。
ゴットンゴットン。
それを子守唄に眠った、昔の思い出です。