1、「なぜ、関ヶ原の戦いの後豊臣家が生き残ったのか?」
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2、「なぜ、せっかく生き残った豊臣家が大阪の陣を始める事になってしまったのか?」
高校生の私はそんな疑問を持った事があります。
ただ、受験には全然関係ない。
青春真っ盛りで心ときめく事が出現して忘れてしまった。
ところが、ウクライナの危機(世界の危機)の渦中にある今になって、突然又その疑問が蘇ったのです。
ひょっとして、歴史上の戦いの裏の事実を知ることは、現実の紛争の実態を知る事に繋がるかも知れないと調べてみました。
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そこで以前読んだ歴史本やネット検索をアンチョコにしました。
私が得た結果は「家康はもの凄い狸親父だった」という事です。
彼の計画的な図り事によって安土桃山時代の絢爛豪華な大阪城は落ちてしまったのです。
1、については、淀君が「ここで西軍について三成(西軍)が負けると豊臣家が潰れてしまう」と考えた為、豊臣は中立の立場をとりました。
実は、関ヶ原合戦は豊臣本家と徳川家康の戦いではなかったのです。
2、大阪城に諜報(スパイ)を家康はかなりの数送っていたらしいです。
なので居場所の情報を得て孫の千姫を落城前に救えた訳です。
大阪城は備蓄さえしておけば10年間は籠城して生き残れるという、敷地も建物も広大で難攻不落と言われた城です。
淀君はこの城を護り、関ヶ原で負けた牢人や大名を取り入れて、いつか我が子秀頼を立て豊臣家再興すると考えていたかも知れません。
地位の盤石を図る為、家康は大阪城を落とす画策をしました。
方広寺事件が起こすのです。方広寺に豊臣家より奉納された鐘に彫られた言葉が謀反の兆しと戦いを吹きかけた。
謀反の兆しとは
「国家安泰」家康を名前を割っている。「君臣豊楽」豊臣の天下を願う。
普通に解釈すれば別に何という事はありませんよね。
多分予めこの言葉を知って、戦いの口実に使ったのだと思います。
プライドの高い淀君は、この暴言にまともに怒って交わす事が出来なかった。
豊臣は絶対不利と言っても、大阪城の守りが堅固で城は全滅という訳にいかない。
そこで、家康は連日大砲を城に撃ち込む。本丸に当た淀君付きの侍女が傷ついてしまいます。ここで淀君は折れてしまいます。
ほくそ笑んだ家康は、穏やかそうな和平工作をして「城の堀を埋める事」を条件にしました。
長大な大阪城の堀を埋めれば、敵は容易く城に入り込めます。
ところが、跡継ぎの秀頼も淀君もこれを呑んでしまった。人質に秀頼の妻千姫もいる事だしと甘く見てたのか知れません。
しかし、外堀どころか内堀も全部埋め立てられてしまいます。
慌てふためく豊臣方、その後なら大丈夫かと思い掘返す工事をしてしまう。
これが思うツボでした。
和平条約を破ったという工実で、徳川軍は城攻めを容赦なく再開したのです。
翌年の大阪夏の陣で哀れ城は焼け落ち、淀君も秀頼も自陣して城と運命を共にするのです。
ここら辺の駆け引きの巧みさ、が家康が狸親父の異名を持つ由来だそうです。
どうも豊臣家は正攻法の方がお得意だったようです。
あれほど才知に恵まれた秀吉が晩年(子供が産まれた時分)に奇行(豪華な茶会の突然中止、異常な迄の我が子への溺愛)に走ったのは、痴呆が原因かという見方もネットに載っておりました。
仲睦まじい妻寧々さんも秀吉が関わった数多の女性も子を産めないのに、何故淀君にだけ子供ができたのか、少々呆けてたなら騙せたのか、などと考えてしまいました。
秀吉は、派手好き、上流の美人好き、美食好きの人みたいですが、家康は地味、女性は低い階級の丈夫な子を産みそうな人を選ぶ、食事は栄養価第一、と全然つまらないです。
でも、家康の方がボケることもなく長生きしてますけど、生活習慣が影響したのでしょうか?