見出し画像

読書の森

川は流れてどこどこゆくの

以前にも触れた石嶺聡子(彼女バージョンが一番好きです)の『花』。

「いつの日かいつの日か 花を咲かそうよ」という歌詞が殊更心に響く今日です。

個人的な話でなく、人が目に見えない理不尽な暴力に晒されているような日々を生きられるのは、明日への希望があるからではないでしょうか?

「いつかは分からない、そしてどこでかも分からない、けれど花開く日迄、豊かな感情を失う事なく、希望を持って生きていきたい」
という気持ちが込められていると思えます。


今、シビアに人生を俯瞰して部外者として生きるにはあまりに厳しい時代です。

例えば、新聞と電話で全て情報を得る用が足りるからこれで終わりと自足出来る時代ではありませんよね。

という事は情報の河をどう泳いでいくか、何のツールも無くて放り出された状況でないでしょうか?
そして、どう泳ぐかは自分次第です。

とはいえ、全体の流れに逆らって、別方向を勝手に泳げば、溺れて死ぬかも知れません。


新型コロナ対策、ウクライナ戦争の問題が行きたい方向へ泳ぎ切る事に多くの困難をもたらしてますが、これに関する情報を無視して泳ぐ訳にはいきません。

堅苦しい話になってしまいましたが、「どこへ行くか分からない」というかなり曖昧な無責任な言葉が、私には本当の事に思えます。

数学の公式と異なり、運命の河の流れのいく先は本当は誰にも分からない。
流れに逆らって泳ぐ訳にいかない。
「その時いかにするか」などと悩んでも答えは出ない、泳ぎ続けなければ、溺れてしまう、
そんな時、何を頼るのでしょう?


「いついつまでも いついつまでも 花を咲かそうよ」
という少々虫の良い希望がきっと人を生かしてくれるのでしょうね。

大体「いついつまでも咲ける」ものではないし、およそ虫の良すぎる話であります。
ただし虫が良かろうと都合良い解釈のし過ぎだろうと、希望を持って生きた方が楽しいです。

当ての無い希望にならない為にも、出来る範囲で今自分が漂う河(情報)がどれほどの位置にあるかは確かめたいですね。

多分、七変化する紫陽花のようにその色が掴めぬものかも知れませんが。

見出し写真は「ミニセントポーリア」です。小さくて可愛いです❤️




読んでいただき心から感謝いたします。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「エッセイ」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事