
菅義偉官房長官は、2月26日の定例記者会見で、東京新聞の望月衣塑子記者の「この記者会見は一体何のための場だと思っていらっしゃるんでしょうか」との質問に、「あなたに答える必要はありません」と述べた。

長官発言が批判される一方で、望月記者への非難の声も上がった。望月記者の当日、あるいはそれ以前の質問が不適切であり、「長官も記者もどっちもどっちだ」とするような論評だ。しかし、記者個人へのこうした非難は、お門違いではないか。
憲法14条は、平等原則を定めており、当然ながら、官房長官はこれに拘束される。メディアの取材には平等に対応せねばならず、また、差別を誘発しないよう配慮する義務がある。
もちろん、平等原則があるからと言って、長官があらゆるメディアに、全く同じように対応すべきだということではない。合理的な理由があれば、メディアによって異なる扱いをすることもできる。例えば、スクープ記事についての記者の質問に特別の回答をしたり、暴力をふるう記者から逃げたりしても、不合理な区別ではない。
しかし、今回の官房長官の発言は、「あなたに」答える必要がないと、記者の人格を攻撃する性質を持っていた。記者会見は、記者の「質問に」答える場であって、「記者を」論評する場ではない。記者の質問が虚偽事実に基づいているなら、「その質問は事実に反する」と回答すればよく、同じことを何度も聞かれたのなら、「その質問には先ほど答えました」などと対応すればよかったはずだ。人格攻撃をするのは、平等な対応とは言えない。
また、公的機関による人格攻撃的発言は、「差別」という深刻な問題を招く点にも注意が必要だ。公的機関の発言は、一般に、国民への権威を持つ。そのうえ、官房長官は、記者たちとの関係で強い立場にいる。もしも長官が特定記者の人格を非難すれば、国民や記者会の中でいじめのごとき差別的な攻撃が誘発される危険がある。
今回の「あなた」発言は、平等原則に反するし、差別感情をあおり、扇動する行為でもあるというべきだろう。
だとすれば、「長官発言をきっかけに」、ことさらに望月記者の言動の欠点を指摘して「どっちもどっち」と論評するのは、長官の発言に扇動された恥ずべき行為というべきだろう。
もちろん、望月記者に批判的見解を持ったり、記者クラブの閉鎖性を嫌悪したりする人々もいるだろう。それを表明するのは、表現の自由だ。しかし、それは「長官発言」とは切り離された時・場所で行うべきだ。公権力による扇動に棹(さお)差して行えば、主張の正統性が失われてしまう。
長官自身は、2月27日の記者会見で、会見の性質は何度も説明してきたので、「繰り返す必要はない」との趣旨だったと説明した。だとすれば、望月記者への人格攻撃を撤回し、質問への答えに差し替えるべきはずだが、それはしていない。
結局のところ、今回の事態は、到底「どっちもどっち」と言えるものではない。批判されるべきは、不当に人格非難をして差別を誘発した長官のみではないか。(首都大学東京教授、憲法学者)
(沖縄タイムス)
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長期政権の驕りですね。
『もしも長官が特定記者の人格を非難すれば、国民や記者会の中でいじめのごとき差別的な攻撃が誘発される危険がある。』
ま、それが狙いだろう。
最近の政権支持者は盲信的であり、意見を述べる時も、自分の言葉ではなく、こういう攻撃的なお手本をそのまま真似て、政権が敵とみなすものを同じように叩く。
この人達に利用されていることも知らずに。
一種のマインドコントロールですね。
だから覚める時は一気に覚める。
少しの疑心から一気に崩壊する。
ま、
マトモな人なら、この人の攻撃的な発言が以下に幼稚さを表してるか、すぐにわかりますけどね。
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