私はどこから来たんだろう...ご先祖様を訪ねて①

2008-11-14 20:42:35 | Weblog
むかしむかし
まだまだ世に知られるずっと前
お元気だった頃の相田みつをさんのこんな歌が私の心に響きました。

自分の番
 いのちのバトン

父と母で二人
父と母の両親で四人
そのまた両親で八人

こうして数えてゆくと
十代前で、千二十四人

二十代前では-----?
なんと、百万人を超すんです

過去無量の
いのちのバトンを
受けついで
いま、ここに
自分の番を生きている
それがあなたのいのちです
それがわたしのいのちです


私のいのちはどこから来たのだろう...

父母のこと、祖父母のことまでは知ってても、
曽祖父母のことやその先のご先祖様のことって
みなさんどこまで知ってます?
あるいは考えたことあります?

ある時期私は無性にご先祖様たちのことを知りたくなりました。
(それはオーバーフォティーになってからですね。20代30代は結婚式などお祝いごとが多いんだけど、40代に入るとお世話になった人や身内など俄然お葬式や法事などお悔みごとが多くなるんだよね。法事などそういった席で一族の昔話などが出てきちゃう)

こんなことも知りたくなるきっかけでした。

実家で書棚を整理していたら古いボロボロのアルバムを見つけました。
祖父母の若いときの写真がいっぱいある中に
明らかにアマル家の人であろう顔立ちをした夫婦の写真を見つけました。
父にその二人のことを尋ねると曽祖父母でした。

しかし、曽祖父の紋付を羽織った写真をよく見ると
羽織に写る家紋がアマル家のものと違っているのです。
「あれッ、何で?
父に聞いても、曽祖父と一緒に暮らしていなかったためその辺のことは一切わからずじまい(祖父から何も聞かされていなかったらしい)。
ただ、曽祖父の実家は下田で名だたる網元で兄弟が12人いたということだけ伝え聞かされていました(のちのちこれが遠縁の方たちとお会いしたときの共通の話題となりました。調べてみたら当歳で亡くなった児を入れれば実際は13人兄弟)。
(網元の跡取りであった祖父が、親の決めた相手でなく、当時、三ツ矢サイダーのポスターにも起用され下田の美人芸子だった祖母を見初め2人で駆け落ち同然に下田を飛び出し、台湾に渡り(大正時代)、そこで父も生まれたので、父は日本にいる曽祖父のことをほとんど知らないのでした。....ちょっと語りが多くなりました。
というようなことがありどこか気がかりでした。

そして下田の菩提寺に祖父母の墓参りをしたとき
アマル家の墓そばに曽祖父の羽織にあった家紋が刻まれた墓石を数多く見つけることになりました。
後々調べると驚かされるのですが、それは今思うと曽祖父の写真を見つけたときから、菩提寺の墓参りまで、ご先祖様たちが自分たちの存在を私に知らしむる導線(メッセージ)であったように思えてなりません。
「お~いアマルよ。お前の先祖はこんなにいっぱいここにいるんだぞっ」てね
もうこの辺のお話になると江原啓之さんのスピリチュアルな世界に入ってきちゃうので興味のない方はスルーください。

自分にいのちのバトンを渡してくれた方々(ご先祖様)探しのことをしばしカキコしていこうかと思います。





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