夫の仕事旅行に便乗して、一週間長野に行ってきました。
新幹線を乗り継いで、東京駅経由で日本列島を北上。
長野新幹線の車窓から見える風景には埼玉の懐かしい駅名がびゅんびゅん通り過ぎていき、電車で小中高と通学していた頃の気持ちが、ふとよみがえりました。わたしは小学校6年生からは埼玉県の学校へ編入し、千葉県から越境通学していました。
大学はさらに遠く西東京へ、都内を横断する距離を通い、電車をいくつも乗り継いで、片道2時間くらいかかっていました。
黒く伸び広がる線路、暴力的に空を横切る電線、大小様々な大きさのビルが古かったり新しかったり、、なじみが深い景色です。
明らかに、子供が見て心が浮き立ったり人生に希望を持てる景色ではなかったことを再認識。
だけれど10代の頃の喜怒哀楽が、その景色に重なります。
旅先滞在中は、宿の窓から夜、外を眺めると、黒々とシルエットになった高い木々の上に、黒と青灰色の流れるように混じった空が静かに降りていました。
ゴッホ『星月夜』から星を消したようでもあり、
ムンク『叫び』の背景の暗色部分のようでもあり、
・・・これらの絵を知って興味深く眺めたのは確か中学生頃が最初だったかと思いますが、
夜空をじかに眺めると同時に、自分の心の記憶を通して目の前の光景を観る ということは、やはり半分は思い出を見ていることになるのではないか と思いました。
知らず知らず見つめてきた景色が、その人間をかたちづくる大きな要素になると思います。
特に、子供のときにその人を受け止めてきた風景は、大人になってからも変わらず支えてくれます。
あの景色の中に帰る、と決めた時に人は原風景に戻ることができる、
だから、受容する力の大きい景色にどれだけ触れてこられたかが、心の力の源になる気がする。
感受性のつよい、幼い頃の記憶力は根強いもので、たいていの人は2年ぶりに観た景色より、20年前に観た景色のほうが、心に鮮やかによみがえりやすいものではないかしら。
そしてその景色は、豊かなものであったほうが、頼もしいに決まっている。
ビルと線路がメインの東京近郊で生まれ育ったとしても、機会をこまめに捉えては自然豊かな環境に放り出された子供時代を送った人間は、概して生命力、気力が強い気がする。
京都に引越してからは、山景色に囲まれて暮らしています。
自宅の窓から見える植物園は閉園すれば真っ暗になるし、夜の鴨川上流もライトアップされないので暗く、もう夜になったら眠るしかない、というムードが、界隈全体を包みます。
人間が自然をねじ伏せていないのが、長く暮らした東京と、大きく違うところ。
夜になったら、自然の力が自由に躍り出る番で、人間は黙って家に入り、そちらに街を譲り渡す。
この環境の素晴らしさありがたさがあらためて身体にしみわたり広がりました。
この中で生まれ育った夫と、ランドセルをラッシュアワーの電車内の人波に潰されてきた自分とでは、基本の強さが違うのは当然だろうなあと気が付いた、この旅の帰り道でした。
photo...風吹きわたる信濃追分、8月16日。
新幹線を乗り継いで、東京駅経由で日本列島を北上。
長野新幹線の車窓から見える風景には埼玉の懐かしい駅名がびゅんびゅん通り過ぎていき、電車で小中高と通学していた頃の気持ちが、ふとよみがえりました。わたしは小学校6年生からは埼玉県の学校へ編入し、千葉県から越境通学していました。
大学はさらに遠く西東京へ、都内を横断する距離を通い、電車をいくつも乗り継いで、片道2時間くらいかかっていました。
黒く伸び広がる線路、暴力的に空を横切る電線、大小様々な大きさのビルが古かったり新しかったり、、なじみが深い景色です。
明らかに、子供が見て心が浮き立ったり人生に希望を持てる景色ではなかったことを再認識。
だけれど10代の頃の喜怒哀楽が、その景色に重なります。
旅先滞在中は、宿の窓から夜、外を眺めると、黒々とシルエットになった高い木々の上に、黒と青灰色の流れるように混じった空が静かに降りていました。
ゴッホ『星月夜』から星を消したようでもあり、
ムンク『叫び』の背景の暗色部分のようでもあり、
・・・これらの絵を知って興味深く眺めたのは確か中学生頃が最初だったかと思いますが、
夜空をじかに眺めると同時に、自分の心の記憶を通して目の前の光景を観る ということは、やはり半分は思い出を見ていることになるのではないか と思いました。
知らず知らず見つめてきた景色が、その人間をかたちづくる大きな要素になると思います。
特に、子供のときにその人を受け止めてきた風景は、大人になってからも変わらず支えてくれます。
あの景色の中に帰る、と決めた時に人は原風景に戻ることができる、
だから、受容する力の大きい景色にどれだけ触れてこられたかが、心の力の源になる気がする。
感受性のつよい、幼い頃の記憶力は根強いもので、たいていの人は2年ぶりに観た景色より、20年前に観た景色のほうが、心に鮮やかによみがえりやすいものではないかしら。
そしてその景色は、豊かなものであったほうが、頼もしいに決まっている。
ビルと線路がメインの東京近郊で生まれ育ったとしても、機会をこまめに捉えては自然豊かな環境に放り出された子供時代を送った人間は、概して生命力、気力が強い気がする。
京都に引越してからは、山景色に囲まれて暮らしています。
自宅の窓から見える植物園は閉園すれば真っ暗になるし、夜の鴨川上流もライトアップされないので暗く、もう夜になったら眠るしかない、というムードが、界隈全体を包みます。
人間が自然をねじ伏せていないのが、長く暮らした東京と、大きく違うところ。
夜になったら、自然の力が自由に躍り出る番で、人間は黙って家に入り、そちらに街を譲り渡す。
この環境の素晴らしさありがたさがあらためて身体にしみわたり広がりました。
この中で生まれ育った夫と、ランドセルをラッシュアワーの電車内の人波に潰されてきた自分とでは、基本の強さが違うのは当然だろうなあと気が付いた、この旅の帰り道でした。
photo...風吹きわたる信濃追分、8月16日。