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日本歴史紀行

歴史紀行 73 - 4 富士川の戦い 4 平家越 碑







平家越 碑
静岡県富士市新橋町



富士川の戦いまでの流れ



治承四年
以仁王が全国の源氏に平家打倒を呼びかける令旨を発したことで、以仁王に呼応して挙兵した従三位 源頼政があえなく討伐され、最初の抵抗の芽は摘まれたものの、源頼朝の配流先の伊豆では、討伐された源頼政が務めていた伊豆の知行国主、息子の仲綱が伊豆守だったことから、新たに伊豆国主として、平清盛の義弟、時忠が就任し、さらに息子、時兼が伊豆守となることが決まります。その目代として平家の家人、山木兼隆が就任して来ました。


平時忠
清盛の後妻の弟で、
〜平家に非(あら)ずんば、人に非(あら)ず〜
と豪語し、権勢に驕り高ぶる人物でした。


伊豆にあった頼政の親族は伊豆に潜伏、頼政に仕える身だった北条時政、工藤祐経らは立場を失い、平家の圧力が伊豆にも強く晒されることになると、北条時政ら、伊豆の地方豪族の一部は、危機感を強めていた矢先、平家に近い伊東祐親の監視と殺害の危機から逃れた源頼朝と時政の娘、政子が結ばれると、時政は腹を括ります。

さらに
頼朝の父、義朝と関係の深かった関東の武士団は、前年の清盛の起こした政変により、伊豆と同じ様に平家の圧迫下にあり、状況を打開したいという思いを秘めていました。


こうした流れの中で京からは、頼朝ら、源氏勢力を平家が討伐するという噂と、清盛により幽閉されている後白河法皇からの救済要請が密書により知らされると、一度は静観した頼朝が決起することを決め、その手始めに目代の山木兼隆を討つというものでした。

頼朝は北条時政と宗時、義時の父子と伊豆の地方豪族が加わり山木兼隆を討ち、挙兵の狼煙を上げますが、次戦の石橋山の戦いでは大敗し、頼朝は安房(千葉県)へ逃れ、北条時政、義時の父子は頼朝との共闘を求めて甲斐武田氏を訪ね、時政の嫡子、宗時は戦死しました。



富士川の戦い

討伐の決意から出陣日の吉兆を巡り日々を費やした平家が駿河に入ったのは既に10月でした。


この頃、安房に逃れた頼朝は、千葉常胤や上総広常、畠山重忠、安西景益、足立遠元といった関東の武士団を味方に引き入れて鎌倉に入ります。


緒戦、平家の討伐軍は、頼朝の同盟の呼びかけを受けた甲斐武田氏に先鋒が敗れ、さらに士気が下がり、富士川に滞陣します。


鎌倉で大軍勢を編成した頼朝は富士川に到着し、対岸の平家軍に対峙しました。

甲斐武田氏と頼朝の軍勢は総勢四万にも膨れ上がりました。

平家軍の兵が夜に松明(たいまつ)を灯す富士川の対岸には、おびただしい数の源氏の軍勢が控えました。

 



現在の富士川(渡船場跡付近)



治承四年 十月二十日夜半
富士川西岸に滞陣している平家軍の背後を衝くべく、甲斐武田の軍勢が密かに渡河していると、川辺で羽を休めていた多数の水鳥が驚いて一斉に飛び立ちます。


水鳥多数の羽ばたきと鳴き声、水しぶきに平家軍の兵士達は、源氏の大軍勢が一斉に大襲来したと思い大混乱に陥り逃げ惑います。


武具、甲冑を捨て、馬を奪い先を争って持ち場から逃げ出す者、下知に従わず徒士、遊女らが潰走する様を見て、重臣の藤原忠清は総大将の平維盛に退却を進言、維盛も同意しました。





頼朝は勢いに任せて追撃を主張するも、参集してきた上総広常ら、武士団は京までの兵站と、まだまだ平家に連なる者が残る関東を留守にすることは、背後の衝かれ、政情不安に陥らせる
として反対、頼朝も同意しました。


混乱を極めた平家軍が京にたどり着いた時、その数は十数騎という有り様でした。

孫の醜態に平清盛が大激怒したのは、間違いありません。






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