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日本歴史紀行

歴史紀行 81 ‐ 3 平家終焉の地 平 宗盛公 胴塚 3


平宗盛公胴塚
滋賀県野洲市大篠原


1181年 治承五年三月、平清盛の病没の翌月、宗盛は頼朝、義仲に次いで挙兵した頼朝、義仲の叔父、源行家を討つべく弟の重衡を派遣。


美濃 墨俣川の戦いで源行家の軍勢を打ち破るも、行家を討ち漏らして三河まで追撃し二度に渡る合戦に勝利するも結局は行家を鎌倉へと取り逃がします。


この時期、頼朝は飢饉の対策ということもあり、富士川の戦いで平家軍を追い払った後はあえて軍勢を動員する様な上洛は急がず、堅実に関東での経営に専念していました。


平家の主だった軍勢が美濃、尾張、三河へと行家を追撃していた頃、信濃で挙兵していた木曽義仲は瞬く間に信濃を抑え、北関東へ進出した後は頼朝との衝突を避けて西へ転進し、越後の平家方、城 長茂を横田河原の戦いで破り、北陸へ進出する足掛かりを掴みます。

平家方、城 長茂の3倍もの大軍を打ち破った義仲の声望は大いに高まり、義仲は北陸へ進みました。

北陸では、平家に不満を持っていた在地豪族らが蜂起し義仲に接近、義仲はさらに北陸に逃れていた以仁王の遺児、北陸宮を保護し、さらに平家の重要な大荘園であった北陸地方を押さえます。


平家にとって、重要な食糧の供給源だった北陸地方を失うことは、致命傷になり得る痛恨事でした。

清盛亡き後の平家の棟梁となった宗盛は、先に挙兵した頼朝よりも義仲への対決を余儀なくされました。


4に続きます。





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