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日本歴史紀行

歴史紀行 81 ‐ 2 平家終焉の地 平宗盛公胴塚 2


平宗盛公胴塚
滋賀県野洲市大篠原


1181年 治承5年閏2月4日、
平安時代 不世出の傑物〜平清盛と、
謀略の帝 後白河法皇は、長い蜜月の時期もあったものの、最後は自らを手足を縛る如く幽閉した清盛を許さず、忌の際(いまわのぎわ〜臨終前)に清盛が今後は宗盛と協調の政務を望み奏上したものの、法皇は一蹴してみせたため、宗盛に平家独裁の継続を託し、世を去りました。


剛腕と地道に築いた財力、それに類い稀な交渉術を武器に、朝廷を向こうに一地方国守の立場から、官位最高位である太政大臣にまで昇り詰めた父、清盛と、父が全盛期を敷いたレールの上を歩んできた宗盛では、比べるまでもありません。


宗盛は平清盛の三男として、
清盛と後妻、時子(二位尼)との間に生まれました。

生年は1147年、久安3年に生まれます。
同じ年に源頼朝が生まれています。


平家が頂に立つ きっかけとなる平治の乱に13歳で出陣します。

この戦いで頼朝も初陣となり戦場に立ちます。

宗盛に目立つ手柄も無いものの、戦いは清盛の作戦と手腕もあり、官軍となることで勝利します。

敗れた源氏は敗走し、同じ年の頼朝は捕らえられ、宗盛の祖母にあたる池禅尼の必死の助命嘆願によって斬首は免れて伊豆へ配流となります。

宗盛は遠江守に任じられ、後に公卿に昇進と、平家一門ということで不相応な出世を遂げます。
 

奢る平氏は久しからず。

愚鈍で暴慢な性格に加え、大食漢のために肥満体型なことから帝の行幸の際に落馬する失態を犯す有り様と公卿 右大臣で五摂家 九条家の祖、九条兼実は日記で罵る様に書き連ねました。





清盛が病没すると、葬儀もままならない内に後白河法皇に政権返上を奏上してみせます。


清盛が強行した福原(神戸)への遷都と還都。
焼き討ちした南都への後始末。
反乱の兆候を見せる園城寺。


政権を投げ出した平家に後白河法皇はこの後、あらゆる謀略と手段を駆使して源氏と共に平家を追い詰めることになります。



3に続きます。





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