志村鉄一碑
吉田茂八碑
豊平川
幌平橋に近い(当時はまだ架かってない)両河川の土手付近に二人の邸宅、通行屋がありました。
志村鉄一と荒井金助
蝦夷地(北海道)石狩役所調役、荒井金助と共に、蝦夷地(北海道)石狩にやって来た剣客〜志村鉄一。
時代はペリー来航以来、外圧により鎖国政策が廃された幕末、1857年、安政四年のことです。
志村は腕の立つ信濃出身の剣客で、荒井金助は、もしかしたら、用心棒として雇ったのかも知れません。
幕府が直轄領として編入させる前の蝦夷地は、福山(現在の北海道、松前町)松前氏(旧蠣崎氏)が、豊臣秀吉から支配者として認められて以来、徳川家康にも所領安堵され、支配者として君臨しました。
ただ、松前氏には蝦夷地開拓という考えは無く、ニシン、サケ、昆布といった海産物漁で得られる莫大な収益のために海岸近くに役場、商い場、集落、御殿を設ける程度でした。
その支配する方法の実体は、アイヌ人を奴隷のごとく扱う雇うやり方で、実際にこれに抗議する反乱も何度となく起こり、鎮圧される歴史が繰り返されてきました。
ペリー来航以来の外圧に向き合うことを喫緊の課題とされた幕府は、北方地域の警護をとても松前氏には任せられないと判断し、安政2年に蝦夷地を召し上げ、陸奥へ配置する処置をしました。
志村鉄一の上司となる荒井金助は行動力のある人物でした。
巡察を何度も行い、松前藩時代に漁場でのアイヌ人酷使が問題となっていた場所請負人制度を自由な役場届け出制度に改め、資源枯渇が心配されたサケの遡上する河川に禁漁期間を制定したりして乱獲を防いだりしました。
また、先年に蝦夷地を探検した松浦武四郎の意見を参考に新道開削を決め、小樽、銭函から札幌を経て千歳へと通じる札幌越新道の工事を進めます。この道路は現在の国道5号、274号にあたります。
【荒井金助については、幕末、北海道の記事辺りで、また投稿の記事を設けたいと考えています。】
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